> [!abstract] 概要(abstract 日本語訳)
> 認知測定と機械学習の近年の進歩は、科学のあり方に影響を与えている。仮説を立てずに、網羅的な計測を設定してデータを機械学習に送るだけという方法が新たな標準になりつつある。データの解釈すら人工知能に委ねるべきだという意見さえある。しかし、これが本当に科学者の仕事であるかどうか、私は疑問に思う。科学者の仕事は、人間が理解できる説明体系を構築することであるべきだ。このような観点から、縮約・網羅・減算の関係について論じる。
## 論文情報
- **タイトル**: 縮約,網羅,減算:科学者の仕事とは何か
- **著者・所属**: 岡ノ谷 一夫([[東京大学]])
- **媒体**: 認知科学(Cognitive Studies: Bulletin of the Japanese Cognitive Science Society), Vol. 28, No. 2, pp. 236–241
- **発表年**: 2021年6月1日
- **DOI**: https://doi.org/10.11225/cs.2021.010
- **種別**: コメンタリー(誌上討論「インタラクションから現れる生命性」シリーズ)
- **コメント対象論文**: [[池上 高志]]「生命としての認知科学:減算と縮約をめぐって」認知科学 28(2), 198–210, DOI: 10.11225/cs.2021.007
## 概要
[[岡ノ谷 一夫]]が池上 高志の論考(「認知科学に生命性を復権させる」ことを目的とした論文)へのコメンタリーとして執筆した。近年の認知科学が**縮約**(次元圧縮による人間理解可能な説明)から**網羅**(仮説なしの包括的計測)へ向かう潮流を整理しつつ、Meillassoux の思弁的唯物論と Uexküll の環世界を参照して**減算**(生体による外界の選択的遮断)を位置づける。最終的に、縮約と減算の並行処理が認知科学の現実的な在り方であると結論づける。
## 問題設定
- 計算資源の増大により「仮説なし計測→機械学習への投入」が科学の標準になりつつある
- これは科学者の仕事か?科学者の仕事は「人間が理解できる説明体系を構築すること」ではないか
- 縮約(個体発生的・メタ認知的)と減算(系統発生的・生命的)の二律背反をどう解消するか
## 三概念の整理
### 縮約(compression / contraction)
多次元データを低次元に写像することで、人間が理解できる単純な説明を生成する。
- 著者の原体験: 1988年の博士論文で鳥の鳴き声パラメタを PCA で縮約し、Kohonen 自己組織化ネットと共通点を発見。「科学とは次元縮約的である」という直感を得た
- 神経回路網の中間層(池上の言う Z 層)が入力データの縮約になっている例: Elman ら(1996)の文章分節化モデル、Tani(1996)の空間分節化モデル
- 縮約の問題: 単純で優美な説明は可能だが、現象のすべてを扱えるとは限らない。仮説に引きずられた観察バイアスが残る(系外惑星の例)
- Meillassoux の批判: 縮約は「反動的で愚劣な生成」。言語を介在とした人間的意味の付与であり、外界の物質的実在を捉えられない
### 網羅(encompassing)
仮説を立てずに可能な限り包括的に計測し、大規模モデルにより未計測事象を演繹する。
- 2000年代以降、計算資源の飛躍的増大により実現可能になった
- 例: Speechome 実験(Roy, 2009)——自宅全センサで子供の言語発達を網羅記録。GPT-3(1750億パラメタ・5兆コーパス)
- 例: Nakai & Nishimoto(2020)——103の認知課題を遂行中の被験者の大脳皮質を 2×2 mm 精度・40,000–60,000 地点で計測。課題が大脳皮質で階層的に処理されることを発見し、未使用課題の脳活動の予測も可能
- 池上の主張: 縮約ではなく網羅にのみ「生命の躍動」がある
- 問題: 網羅されたデータを人間が利用しようとするとき、再び縮約が発生する
### 減算(subtraction)
生体が外界の一部のみを取り込み、残りを遮断(減算)すること。縮約が縮めるのに対し、減算は切り捨てる。
- Meillassoux の「能動的な生成」: 反動的な縮約でも受動的な網羅でもなく、外界から選別して自己の世界を構成する
- Uexküll の環世界(Umwelt): ダニにとって赤外線が主要手がかりであり他の信号は減算される。ヒトの聴覚も 100 Hz 以下と 20 kHz 以上を遮断する
- 系統発生的側面: 減算はランダムに始まり適応度に反映されて系統発生を可能にする。Braitenberg・Brooks のロボットが世代交代を要することに対応
- 問題: 減算の基準をどう設定するか。認知科学は進化の時間軸ではなく人間の意思決定の時間軸で構成されなければならない
**Figure 1: 減算の概念図**
![[_attachments/jcss-2021-okanoya/fig01-subtraction-diagram.png]]
(Figure 1. 減算。円は有機体、欠けている部分は感覚運動系。外界の一部は有機体に取り込まれ(感覚)、操作を受け外界に戻される(運動)。外界は縮約されず、減算されて有機体に影響する。以上は岡ノ谷の解釈。Meillassoux(2008)をもとに作成。Source: Figure 1 from Okanoya 2021.)
## 縮約と減算の二律背反
- 図2 の漫画: 「Simple but wrong」の道に群衆が殺到し崖から落ちる。「Complex but right」の道を選ぶ少数者だけが頂上に至る。大衆は縮約を求め、選良は網羅を求める。しかし網羅の道はあまりに長い
- 池上の悩み: 「網羅 + 縮約」という矛盾を新しいパラダイムとして提唱しようとしているが、その産みの苦しみが論考のわかりにくさを生んでいる
- 著者の結論: 縮約と減算の二律背反は解消できない。認知科学は「網羅されたデータを縮約したもの(愚劣な生成)と、最適な減算(能動的な生成)を並行して人間に提示する」しかない
**Figure 2: 縮約 vs 網羅のメタファー**
![[_attachments/jcss-2021-okanoya/fig02-compression-vs-encompassing.png]]
(Figure 2. 大衆は単純だが間違った答えを求め崖から落ちてゆく。ごく一部のみが、複雑だが正しい道を選び頂上を極める。
[email protected] より。以下は岡ノ谷の解釈: 大衆は縮約を求め、選良は網羅を求める。網羅の道の途中に「この道は正しい」という看板があれば、それが減算ということであろうか。Source: Figure 2 from Okanoya 2021.)
## 人工知能と特異点のリスク
認知科学の将来像として著者が提示するシナリオ:
1. 科学者は偏向のない計測システムを設計することに専念する
2. データは縮約なしに膨大な量で提出される
3. 人工知能がデータを縮約処理して人間に提示する
このシナリオの問題点:
- 人工知能は**網羅**に基づき予測を立てるが、人間への提示は**縮約**を経る
- 網羅の中に見られる特異点を、縮約は見逃す
- 人間にとっての「想定外」は人工知能にとって常に「想定内」。特異点は事後的に知らされる
- これが非常にまれではあるが惨事をもたらす(例: 津波による原発事故、初期情報隠蔽による世界的疫病流行)
- 経済性のもとに特異点への対応は後回しにされ、次の特異点は再び想定外となる
## 創造性と Alter3
池上らの Alter3 ロボット:
- 眼前のヒトの動きを模倣→失敗時は記憶からパターンを探索→誰もいないときはノイズを加えて新パターンを生成
- 岡ノ谷の解釈: 模倣(受動性)と記憶更新(能動性)のバランスの揺らぎが創造性を生む
- これは著者が池上論考を「曲解・誤解」し池上が反論することで生じる創造性に類比される
## 強み / 弱点・課題
**強み**:
- 縮約・網羅・減算という三項対立により、機械学習時代の科学方法論の変容を明快に整理した
- Meillassoux の思弁的唯物論と Uexküll の環世界という異なる哲学的系譜を架橋した
- 「認知科学者として縮約から逃れられない」という誠実な自己言及を含む
**弱点・課題**:
- 論文自体が認めるとおり、池上論考の「曲解・誤解にもとづく可能性がある」
- 縮約と減算の並行処理という結論は、問いを先送りしているとも読める
- 特異点リスクの議論は直感的に重要だが、定量的な根拠はない
- 誌上討論のコメンタリー形式のため単独では理解しにくい(池上 2021 との対照が必須)