# Nicira
Nicira は、SDN の原則をネットワーク仮想化という課題に適用したスタートアップである。CTO であった [[Martin Casado]] が同社の中心人物だった。Bruce Davie は 2012 年、同社がスタートアップとしてネットワーク仮想化プロダクトを世に送り出そうとしていた時期に入社した。ハイパースケーラーに匹敵するニーズや専門知識を持つ企業は多くなかったが、データセンター内の仮想マシン用ネットワークを構築・運用するための優れた方法は間違いなく必要とされており、Nicira はこの問題に真正面から取り組んでいた。ネットワーク仮想化は数年のうちに 10 億ドル規模を超えるビジネスへと成長した。(Source: [[@2026__LambdaNote__ネットワークシステムについて語るときに我々の語ること - Chapter 5 SDN:ソフトウェア定義ネットワーク]] ch.5 §5.1)
## ネットワーク仮想化の実装
Nicira のチームでは「サーバ仮想化の成功に倣ってネットワーク仮想化を捉える」という合意形成ができており、その中心にあったのは「仮想化がある種の錯覚を作り出す」というアイデアだった。VL2 よりもはるかに多くのことを実現する必要があり、仮想的な L2 スイッチを作るだけでなく、仮想 L3 ルーティング・仮想ファイアウォール・仮想ロードバランサーなど、ネットワークのあらゆるレイヤーを仮想化しなければならなかった。F5・Checkpoint・Cisco のような巨大企業が何十年もかけて開発してきたネットワーキング機能を、五十人そこそこのエンジニアリングチームで完全にソフトウェアとして再実装するという無謀な目論見は、数年にわたる膨大なエンジニアリングリソースの投入によって最終的にはほぼ実現された。(Source: ch.5 §5.4)
## VMware による買収と NSX
Nicira は VMware に買収された(2012年)。この買収は、Google や Microsoft が SDN ベースのインフラを公然と語り始めたことと並んで、商業的な SDN の採用が変革を加速させる要因になった。買収後の製品である VMware NSX は、物理的なネットワーク機器のコントロールプレーン/データプレーン間インターフェースに触れることなく、プログラムによる設定を通じてネットワーク仮想化を実現している。VMware の公称では、NSX(Nicira の流れを汲む)は本書執筆時点でフォーチュン100企業のうち91社のデータセンターで採用されている。(Source: ch.5 §5.2, §5.4)
## 「物理法則」としての仮想化
Nicira の創業者 Martin Casado は、仮想化によって「物理法則」がどう変わるかをよく語っていた。サーバ仮想化の顕著な応用が仮想マシンのライブマイグレーションであるように、ネットワーク仮想化も物理ネットワーキングと同様の機能を再現するだけでなく、マイクロセグメンテーションのような新機能や、当時「キラー」ユースケースとみなされていたゼロトラストネットワーキングの土台を生み出した。(Source: ch.5 §5.4)
## ゼロトラストの土台となったマイクロセグメンテーション(第8章)
ネットワーク仮想化の黎明期、Nicira の同僚たちは「ネットワーク上のあらゆる要素は最終的にすべて仮想化できる」というビジョンを抱いていた。Bruce Davieがチームに加わった当時、Niciraの製品はレイヤー2のスイッチングの仮想化を完了し、レイヤー3のルーティングは出荷を目前に控えていた。レイヤー4についても、NiciraがVMwareに買収されてから少し時間はかかったが、分散ファイアウォールの仮想化までこぎつけた。Davieはこれを、ネットワーク仮想化がセキュリティに大きな影響を与えた決定的なステップだったと評している。これにより、要所に置いたファイアウォールを通るようトラフィックを強制する必要がなくなり、どのデバイスが互いにどう通信できるかを正確なポリシーセットで指定できるようになった。(Source: [[@2026__LambdaNote__ネットワークシステムについて語るときに我々の語ること - Chapter 8 セキュリティ:負の目標]] ch.8 §8.3)
## 仮想スイッチの完全オフロードに必要な教訓
第10章では、Nicira および VMware の NSX チームで得た教訓として、仮想スイッチの機能をオフロード用エンジン(IPU/DPU)に移動させたいなら、そのオフロードエンジンは完全にプログラム可能である必要があると述べられる。仮想スイッチ全体を実装するのに十分な汎用性がないNICだと、仮想スイッチの一部の機能しかオフロード用エンジンに移動できず、たとえ90%の機能を移動できたとしても、残り10%のCPUによる処理が依然としてボトルネックになる。(Source: [[@2026__LambdaNote__ネットワークシステムについて語るときに我々の語ること - Chapter 10 SmartNIC、IPU、DPU]] ch.10 §10.2)
## ネットワーク自動化を最も有名にした「見落とされがちな」成功要因(第11章)
Nicira を世に知らしめ VMware による買収につなげたのは「ネットワーク仮想化」というユースケースとされるが、著者 Bruce Davie は「ネットワーク自動化」が果たした重要な役割はとかく見落とされがちだと指摘する。買収以前の Nicira の顧客は、著者の記憶する限りすべて何らかのネットワーク自動化プロジェクトのために NVP(Network Virtualization Platform)を利用していた。典型的なユースケースは開発者向けクラウドのサポートであり、複数の VM を特定のネットワークトポロジーで相互接続した分散環境でコードを動かしたい開発者が、セルフサービスのポータルを通じて必要な VM とネットワークリソースを申請する仕組みだった。2012年当時、VM の払い出しには技術的課題がなかったが、ネットワークのプロビジョニングは依然として苦痛極まりない手作業のままであり、Nicira の中央集権型 SDN コントローラが外部に公開する API をセルフサービスのポータルから呼び出せるようにしたことが、この自動化を可能にした。(Source: [[@2026__LambdaNote__ネットワークシステムについて語るときに我々の語ること - Chapter 11 ネットワーク管理は今やクールな仕事だ]] ch.11 §11.6)
Nicira 社内では自社のドッグフーディング環境として、OpenStack ベースのセルフサービスポータルが用意されていた。ここでは NVP インスタンスが提供する仮想ネットワークの上でさらに別の NVP インスタンスが仮想ネットワークを提供するという入れ子の仮想化になっており、著者らはこれを映画『インセプション』になぞらえて呼んでいた。開発者が具体的な設定手順でなく「VM をこういうトポロジーで相互接続したネットワークが欲しい」という意図(インテント)だけを示せばよいこの仕組みは、インテントベースネットワーキングの原点の一つとされる。(Source: ch.11 §11.6)
ネットワーク仮想化のビジネスを本格的に拡大しようとした段階で、ほとんどの顧客にとって自動化がまだ現実味のない高嶺の花であることが判明するという逆説も生じた。VMware による買収完了後、顧客とのミーティングで「御社の自動化戦略はどうなっていますか?」と尋ねると、ほとんどの顧客はポカンとした顔をするだけだった。Nicira の当初の顧客が並外れて洗練された企業ばかりであり、一般的な企業では考えられない水準ですでに VM のプロビジョニングを自動化していたために、ネットワーク構築における手作業の辛さが際立って見えていたにすぎなかった。2013年の分散ファイアウォールの登場によるマイクロセグメンテーション(第8章参照)という新ユースケースへの道が拓かれた結果、本来の目的だったネットワーク自動化は主役の座を奪われて舞台の袖に追いやられた。詳細は [[ネットワーク自動化]] concept を参照。(Source: ch.11 §11.6)
## 創業と業界初の商業的 SDN 成功事例(SDN本 第2章)
Nicira Networks は 2007 年、SDN の提唱者として広く認められる 3 人、Martin Casado・Scott Shenker・Nick McKeown によって設立された。SDN を商業的に活用する目的で創業されたものの、多くのスタートアップと同様に理想的な製品を見出すまでには時間を要した。最終的に、業界初の SDN の商業的成功事例となったのはネットワーク仮想化だった。Nicira のネットワーク仮想化プラットフォームは 2011 年に初出荷され、この製品カテゴリを確立するとともに、後の VMware による買収と VMware NSX への発展への道を拓いた。同時期に McKeown と Shenker は、SDN への転換を業界全体で加速させるための非営利組織を 3 つ立ち上げている(Open Networking Foundation・Open Networking Laboratory・Open Networking Summit)。詳細は [[Open Networking Foundation]] を参照。(Source: [[@2021__SystemsApproach__Software-Defined Networks - A Systems Approach - Chapter 2 Use Cases]] §2.1)
## Onix とネットワーク仮想化アーキテクチャの原型(第8章)
ネットワーク仮想化の適用は Nicira のチームによるものとされ、2014年に Teemu Koponen らが発表した NSDI 論文 "Network Virtualization in Multi-tenant Datacenters" が SDN ベースのネットワーク仮想化システムのアーキテクチャを提示した。この論文が描いたビジョンは、VLAN のような従来の仮想ネットワークよりも仮想マシンとの類推に近く、ルーティング・スイッチングだけでなく NAT・ファイアウォーリング・ロードバランシングまで含め、物理ネットワークの機能セットを完全にソフトウェアで再現するというものだった。(Source: [[@2021__SystemsApproach__Software-Defined Networks - A Systems Approach - Chapter 8 Network Virtualization]] ch.8 §8.2.1)
Nicira のチームは Onix という初期のネットワークオペレーティングシステム(汎用的でユースケース非依存な形で実装されたコントローラ)も構築しており、これは [[ONOS]] の先駆けと見なせる。第8章のネットワーク仮想化アーキテクチャ(管理・制御・データの三プレーン)は、第3章が示す汎用的な SDN アーキテクチャ(分散データプレーンの上に集中コントローラが乗る構図)と素直に対応しており、実際に OpenStack と統合された ONOS ベースの仮想ネットワークアプリケーション Virtual Tenant Network(VTN)も一時期存在した(現在はメンテナンスされていない)。(Source: [[@2021__SystemsApproach__Software-Defined Networks - A Systems Approach - Chapter 8 Network Virtualization]] ch.8 §8.2.2)
## 関連
- [[Martin Casado]] — Nicira の CTO、創業メンバー
- [[Bruce Davie]] — 2012年に入社
- [[VMware]] — Nicira を買収し NSX の源流とした
- [[ソフトウェア定義ネットワーク]] / [[ネットワーク仮想化]] / [[スマートNICオフロード]] / [[ゼロトラスト]] / [[ネットワーク自動化]]
- [[@2026__LambdaNote__ネットワークシステムについて語るときに我々の語ること - Chapter 5 SDN:ソフトウェア定義ネットワーク]]
- [[@2026__LambdaNote__ネットワークシステムについて語るときに我々の語ること - Chapter 10 SmartNIC、IPU、DPU]]
- [[@2026__LambdaNote__ネットワークシステムについて語るときに我々の語ること - Chapter 8 セキュリティ:負の目標]]
- [[@2026__LambdaNote__ネットワークシステムについて語るときに我々の語ること - Chapter 11 ネットワーク管理は今やクールな仕事だ]]
## 出典
- [[@2026__LambdaNote__ネットワークシステムについて語るときに我々の語ること - Chapter 5 SDN:ソフトウェア定義ネットワーク]](ch.5 §5.1, §5.2, §5.4)
- [[@2026__LambdaNote__ネットワークシステムについて語るときに我々の語ること - Chapter 10 SmartNIC、IPU、DPU]](ch.10 §10.2、仮想スイッチのフルオフロードに必要な教訓)
- [[@2026__LambdaNote__ネットワークシステムについて語るときに我々の語ること - Chapter 8 セキュリティ:負の目標]](ch.8 §8.3、マイクロセグメンテーションとゼロトラストの土台)
- [[@2026__LambdaNote__ネットワークシステムについて語るときに我々の語ること - Chapter 11 ネットワーク管理は今やクールな仕事だ]](ch.11 §11.6、ネットワーク自動化がNVP採用の主動因だったこと、インテントベースネットワーキングの原点)
- [[@2021__SystemsApproach__Software-Defined Networks - A Systems Approach - Chapter 2 Use Cases]](§2.1、2007年創業・創業者3名・2011年初出荷、ONF/ON.Lab/ONS設立との同時代性)
- [[@2021__SystemsApproach__Software-Defined Networks - A Systems Approach - Chapter 8 Network Virtualization]](ch.8 §8.2.1, §8.2.2、Koponen et al. NSDI 2014論文のビジョン、OnixとONOSの系譜)