# IT業界における多様性 ## 定義 IT業界における多様性とは、『LeanとDevOpsの科学[Accelerate]』第10章が2015〜2017年度の自社調査データに基づき論じる、技術系チーム・組織における性別(ジェンダー)・少数人種などの構成の偏りと、それを是正する取り組みを指す。著者らは各種の先行調査を引用し「マイノリティ(性的少数者や少数人種)の割合が多い、多様性豊かなチームのほうがチーム全体としての知力が高く([Rock and Grant 2016])、チームのパフォーマンスにも優れ([Deloitte 2013])、事業業績も高レベルである([Hunt et al. 2015])」と述べる一方、自らの調査研究でこれまでに対象となってきたチームのうち多様性が豊かだと言えるチームはほとんどないと明言する。多様性の向上だけでは不十分であり、チームも組織も「多様であると同時に開放的でもなければならない」というのが本章の核心的主張である(Source: [[@2018__Impress__LeanとDevOpsの科学 - Chapter 10 従業員の満足度、アイデンティティ、コミットメント]] §10.4)。 ## 開放的な組織(open organization) 開放的な組織とは「すべての構成員が、自分は人格と技能の両面で歓迎され価値を認められていると実感でき、あらゆる関係者が強い帰属意識をもち、共通目標の達成をしっかり意識している」組織である([Smith and Lindsay 2014, p.1])。著者らは、開放性は多様性を根付かせる上で必須の要素であると位置づける。この定義は、単に構成員の属性の分布(パーセンテージ)を変えるだけでは多様性施策として不十分であり、構成員が実際に歓迎され尊重されていると感じられる文化的条件が伴って初めて意味を持つ、という本章の立場を裏づける(Source: [[@2018__Impress__LeanとDevOpsの科学 - Chapter 10 従業員の満足度、アイデンティティ、コミットメント]] §10.4)。 ## 調査結果: ジェンダーの内訳 本調査研究が性別に関する質問を追加したのは2015年である。自身が女性であると答えた回答者の割合は2015年5%・2016年6%・2017年6.5%であり、著者らの予想を下回った(他の調査研究ではシステム管理部門で女性が占める割合が2008年の13%から2011年に約7%へ減少[SAGE 2008][SAGE 2012]、コンピュータ・情報管理部門で女性が占める割合は27%[Diaz and King 2013]という結果が出ていた)。2017年度調査では33%が「私のチームには女性がいません」、56%が「私のチームの女性の割合は10%未満です」、81%が「私のチームの女性の割合は25%未満です」を選択した。2017年度の性別関連の基本統計は男性91%・女性6%・ノンバイナリージェンダーなど3%である。性別関連の質問は当初「男性/女性」の二択にしたが、著者らは今後「第3の性」も対象にしていきたいと述べる(Source: [[@2018__Impress__LeanとDevOpsの科学 - Chapter 10 従業員の満足度、アイデンティティ、コミットメント]] §10.4.1)。 ## 調査結果: 少数人種の内訳 「あなたは少数人種ですか」という質問への2017年度の回答は、77%が「いいえ、私は少数人種ではありません」、12%が「はい、私は少数人種です」、11%が「無回答/該当せず」であった。全世界から回答を募っているため、回答者の国籍によっては人種に関する回答の選択肢が限定される(例: 米国の「アフリカ系アメリカ人」「ヒスパニック」「太平洋諸島の住民」といった区分は他国には存在せず意味を成さない)。著者らは、障害者はいまだ調査対象にしていないが今後この領域も対象にしていきたいと明言する(Source: [[@2018__Impress__LeanとDevOpsの科学 - Chapter 10 従業員の満足度、アイデンティティ、コミットメント]] §10.4.2)。 ## 多様性が定着しない要因 多様性に関する他の調査研究では、企業業績([McGregor 2014])・株価([Covert July 2014])・ヘッジファンドの運用益([Covert January 2014])の上昇と女性が指導的立場にあることとの相関が判明しており、Anita WoolleyとThomas W. Maloneの研究では女性の多いチームの知能が集団知能スケールで平均値を上回る傾向が明らかになった([Woolley and Malone 2011])。またSTEM(科学・技術・工学・数学)分野における男女の能力・才能に有意差はないとの調査結果もある([Leslie et al. 2015])。にもかかわらず女性や少数人種の技術部門への進出が進まないのは、「男性の中には生まれつき理系の才能に恵まれ技術職向きの者がいる」という見方がいまだにはびこっているからにすぎない([Leslie et al. 2015])。この見方は組織文化にも浸透し、女性が定着しにくい環境を生んでいる([Snyder 2014])。技術部門における女性の離職率は男性の場合よりも45%高く([Quora 2017])、少数人種の場合も同様であろうと思われる。女性からも少数人種からも、嫌がらせや自覚なき差別(社会的に非主流とされる人々を無意識に差別する言動)、賃金不平等が報告されている([Mundy 2017]など)。著者らは、これらはいずれも首脳陣や現場関係者が油断なく目を光らせ、発見し次第改善すべき事柄だと述べる(Source: [[@2018__Impress__LeanとDevOpsの科学 - Chapter 10 従業員の満足度、アイデンティティ、コミットメント]] §10.4.3)。 ## 実践に役立つ情報源 著者らは実践に役立つ情報源として、グレース・ホッパー記念会議(IT分野の女性を対象とする国際カンファレンス、「アニタ・ボルグ 女性と技術研究所」主催、2017年の女性出席者は18,000人超)、Geek Feminism Wiki(「ギークコミュニティ」のフェミニズム動向を伝えるオンライン情報源)、Project Include(性的・人種的多様性の問題解決を目指す非営利組織が運営する情報源)の3つを挙げる(Source: [[@2018__Impress__LeanとDevOpsの科学 - Chapter 10 従業員の満足度、アイデンティティ、コミットメント]] §10.4.4)。 ## 横断的知見 - **本章が「障害者はいまだ対象にしていない」と明言する調査上の空白は、『SREの探求』29章・30章がすでに扱う「精神障害・神経発達障害・ケア提供者を含むフルスタックインクルーシビティ」の議論と時系列上の対比をなす**: 本ページが集約する第10章(原書2018年)は、ジェンダー・少数人種を調査対象に加えた一方、「障害者はいまだ対象にしていないが、今後はこの領域も対象にしていきたい」と述べるにとどまり、障害を多様性調査の空白として認識するだけの段階にある。[[メンタルヘルスとインクルーシビティ]] concept が集約する『SREの探求』29章・30章(原書2018〜2021年)は、精神障害・神経発達障害のあるメンバーの受け入れを、個人の思いやりや啓発キャンペーンでなく組織的・構造的な変化(EEOC不可欠職務分析、オプトイン方式のオンコール調整、ケア提供者のオプトアウトポリシー等)として具体的に論じるところまで進んでいる。両ソースを並べると、「多様性の測定対象を性別・人種から障害・神経多様性へ広げていく」という同じ方向の問題意識が、DevOps研究(Accelerate)ではまだ調査の空白として自覚されている段階にあり、SREコミュニティの実務者による記述(SREの探求)ではより先の構造的対応にまで到達している、という進展の差が見える。(Source: [[@2018__Impress__LeanとDevOpsの科学 - Chapter 10 従業員の満足度、アイデンティティ、コミットメント]] §10.4, [[メンタルヘルスとインクルーシビティ]]) - **「多様性を上げるだけでは不十分で開放性が必須」という本章の主張は、[[心理的安全性]] concept が集約する複数ソースの「安全に声を上げられること」という要件と同型の構造を持つ**: 本ページの「開放的な組織」の定義(構成員が人格と技能の両面で歓迎され価値を認められていると実感できること)は、[[心理的安全性]] concept が Amy Edmondson の定義から引く「アイデア・質問・懸念・過ちを口にしても罰せられたり辱められたりしないという確信」と、対象こそ異なる(前者は属性の多様性、後者は発言・失敗の許容)ものの、いずれも「量的な条件(多様な人材がいること/発言の機会があること)だけでは不十分で、心理的に安全と感じられる質的条件が伴わなければ機能しない」という共通の論理構造を持つ。第10章は多様性論としてこの構造を独立に展開しており、両概念を突き合わせることで、Accelerateという1冊の書籍が「量プラス質」という同じ論法を組織文化論(第3章、Westrum)・帰属意識論(本ページと共有される第10章前半)・多様性論(本ページ)の複数箇所で繰り返し用いていることが見えてくる。(Source: [[@2018__Impress__LeanとDevOpsの科学 - Chapter 10 従業員の満足度、アイデンティティ、コミットメント]] §10.4, [[心理的安全性]]) ## 未解決の問い - 本章が引用する多様性とチームパフォーマンス・事業業績の相関([Rock and Grant 2016][Deloitte 2013][Hunt et al. 2015][McGregor 2014]等)は、いずれも他の研究からの引用であり、著者ら自身の調査データによる検証ではない。Accelerate自身の調査データで多様性とソフトウェアデリバリのパフォーマンスの相関を直接検証した結果は本章に示されていない。 - 「第3の性」を今後対象にしたいという2017年時点の意向が、後続の調査年度(本書刊行後)でどう実装されたかは、本章の範囲では追跡できない。 - 技術部門における女性の離職率が男性より45%高いという[Quora 2017]の数値の算出方法・調査母集団は、本章の記述だけでは検証できない。 - 障害者を多様性調査に含める計画が具体的にどのような質問項目・測定尺度で実現されるかは、本章には示されていない。 ## 関連 - 概念: [[メンタルヘルスとインクルーシビティ]](障害・神経多様性を扱う隣接concept、本章が「未対象」と述べる領域のその後の展開) / [[心理的安全性]](「量プラス質」という同型の論理構造) / [[従業員エンゲージメント]](同じ第10章が扱う帰属意識・職務満足度) - ソース: [[@2018__Impress__LeanとDevOpsの科学 - Chapter 10 従業員の満足度、アイデンティティ、コミットメント]](本conceptの唯一の出典) - 書籍: [[LeanとDevOpsの科学[Accelerate]]] ## 出典 - Nicole Forsgren, Jez Humble, Gene Kim 著, 武舎広幸・武舎るみ 訳, 『LeanとDevOpsの科学[Accelerate]』, インプレス, 2018, 第10章 §10.4.