# 限定合理性
## 定義
限定合理性(bounded rationality)とは、知的システムの外部環境への適合が、知識と計算によって適切な適応行動を発見する能力によって制限されるという性質を指す。サイモンは前者を実体的合理性(substantive rationality)、後者を手続き的合理性(procedural rationality)と呼び分け、経済学がこの二つの相互作用を最もよく例示する領域だと見た。(Source: [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 2 Economic Rationality - Adaptive Artifice]] ch.2 p.25)
この概念は、まず**古典派・新古典派経済学が置く完全合理性の想定に対する経験的反証**として提示される。教科書的な企業理論では、企業家は利潤を最大化し、しかも最大値を見つける計算能力が問題にならないほど単純な状況に置かれる。費用曲線と収入曲線が外部環境を、利潤最大化という目標が内部環境を完全に定義し、微分して零と置けば最適生産量が出る。この設定では、システムが実際にどう計算するかを知らなくても振る舞いを予測でき、実体的合理性だけを考えればよい。しかしこの像は現実に合うにはあまりに単純である。(Source: ch.2 pp.25-26)
現実性を一段ずつ増していくと、問題は「正しい行動を選ぶこと」から「良い行動のありかをごく近似的に計算する方法を見つけること」へ徐々に移る。需要の弾力性はおおまかにしか推測できず、不確実性のもとでは利潤最大化は利潤と危険をはかる曖昧な効用関数の最大化に変わり、さらに製品の品質と品揃えの選択、製品の発明と設計、工場の日程計画、販売の仕組みづくりが加わる。こうして企業理論は不確実性下の推定の理論であり計算の理論となる。(Source: ch.2 pp.26-27)
反証の要点は次の三つに整理できる。
1. **計算能力の不足**。現実世界の最適化は計算機の有無にかかわらず不可能であり、「人ができないことは、どれほど強くしたいと思ってもしない」。(Source: ch.2 pp.28-29)
2. **効用関数の不在**。最適化はすべての代替案が共通の効用関数で測れることを要求するが、人間の選択が一貫的でも推移的でもないことを示す証拠が大量にある。(Source: ch.2 p.29)
3. **相互先読みの無限後退**。競争する主体が互いを先読みする無限の計算能力を持つと仮定すると、合理性そのものが事実上定義不能になる。(Source: ch.2 p.38)
したがって限定合理性は、合理性の否定ではなく、合理性を成り立たせている条件の記述である。サイモン自身、この章の主題は「人工システムの振る舞いが、その適応能力の限界すなわち知識と計算能力によって強く左右されうること」を示すことだと述べている。(Source: ch.2 p.29)
## 限界が「よい」帰結を生む場合
限定合理性は単なる欠損ではなく、それがあるおかげで成立する秩序がある。
- 囚人のジレンマでは、プレイヤーが最適な利得ではなく満足のいく利得を目指すなら協調解が安定でありうる(Roy Radner)。この種の競争状況では、限定合理性のほうが無限定の合理性よりよい帰結を生むように見える。(Source: ch.2 pp.37-38)
- 市場制度が(最適ではないにせよ)機能するのは、人間の計算能力の限界が相互先読みの無限後退を妨げるからである。ゲーム理論の最も価値ある貢献は、この問題が現実世界のような限定合理性の世界ではそれほど深刻に生じないと示した点にある。(Source: ch.2 p.38)
- 組織が高度に中央集権的でないのも同じ理由による。すべての重要な決定を中央で下せば人間の手続き的合理性の限界を超えてしまう。市場も組織も、決定を分権化して情報の要求を局所化・最小化する点で共通の解法を取る。(Source: ch.2 p.41)
## 誤って限定合理性の名を借りるもの
- 合理的期待(rational expectations)の仮定は、主体が経済を支配する法則を知り合意し、将来の予測がその均衡の不偏推定になっているとする。これは経験的仮定でありながら支持する経験的証拠がほとんどなく、企業も投資家も消費者も遂行に必要な知識と計算能力のごく一部すら持たない。(Source: ch.2 pp.38-39)
- Sargent は適応的期待の自説に「限定合理性」の名を借りたが、その行動仮定を検証するために伴うはずの直接観察と実験の経験的方法までは借りなかった、とサイモンは注記している。(Source: ch.2 p.39 脚注 18)
## 横断的知見
- 第 1 章は経済学を「英雄的な抽象化と理想化」として導入し、一般均衡や合理的期待の形式的扱いでは情報処理システムの適応能力の限界がほぼ無視される一方、市場機構の存在理由の議論や不確実性下の意思決定理論では手続き的合理性がより真剣に扱われる、と予告していた。第 2 章はこの予告どおり、限界への無視と関心の双方の例を並べて見せる構成になっている。(Source: [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 1 Understanding the Natural and Artificial Worlds]] ch.1 pp.23-24, [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 2 Economic Rationality - Adaptive Artifice]] ch.2 pp.25-50)
- 第 1 章は、内部環境と外部環境を分けることの第一の利点を「内部環境について最小限の仮定しか置かずに、目標と外部環境の知識から振る舞いを予測できること」に見た。第 2 章はこの利点が成立する範囲の狭さを内側から測る章として読める。教科書的企業理論はまさにこの利点を最大限に使った理想化であり、現実性を増すほど内部環境の詳細(知識と計算)を無視できなくなる。(Source: [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 1 Understanding the Natural and Artificial Worlds]] ch.1 p.8, [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 2 Economic Rationality - Adaptive Artifice]] ch.2 pp.25-27)
- **第 2 章は限定合理性を経済学への反証として提示したが、第 5 章はそれを専門職教育の内容を決める前提として使う**。第 5 章は、最適な代替案の計算が容易なのは些細な場合だけであり、チェスのミニマックスは要求される計算量が天文学的で人間にも既存の計算機にも将来の計算機にも実行できないと述べ、巡回セールスマン問題も 50 都市程度で実行不能だとする。この計算不能性が、設計のカリキュラムに「最適な代替案を選ぶアルゴリズム」と「満足な代替案を選ぶアルゴリズムとヒューリスティック」を並置させる根拠になっている。記述的な反証が、そのまま教えるべき内容の設計基準へ変わっている。(Source: [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 2 Economic Rationality - Adaptive Artifice]] ch.2 pp.28-29, [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 5 The Science of Design - Creating the Artificial]] ch.5 pp.118-120, 134)
- **第 5 章は限界の所在を論理と計算に切り分ける**。最適化問題はいったん形式化されれば「制約のもとで関数を最大化する」という標準の数学問題であり、答えを導く論理は数学が立脚する述語計算そのものである。すなわち設計に論理上の困難はなく、困難は計算の側にしかない。この切り分けは、限定合理性が合理性の否定ではなく合理性を成り立たせている条件の記述だという第 2 章の位置づけを、形式論の内側から裏づけている。(Source: [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 2 Economic Rationality - Adaptive Artifice]] ch.2 p.29, [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 5 The Science of Design - Creating the Artificial]] ch.5 pp.117-118)
- **設計の論理は限定合理性のもとで最適化ではなく充足の問題として立つ**。第 5 章は設計の解を「指定の制約を満たす可能世界へ導く行動の系列」と定義したうえで、満足化の目標のもとでは求める可能世界がまず一意でなく、探索は目標達成の必要条件ではなく十分条件を求める探索になると明記する。第 2 章が効用関数の不在を最適化の成立条件の欠落として述べたのに対し、第 5 章は同じ事態を解の非一意性という形式的な性質として述べている。(Source: [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 2 Economic Rationality - Adaptive Artifice]] ch.2 p.29, [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 5 The Science of Design - Creating the Artificial]] ch.5 p.124)
- **第 2 章の「限界がよい帰結を生む」という論点は、第 5 章で設計の多様性の擁護として現れる**。第 2 章では、満足のいく利得を目指すことで囚人のジレンマの協調解が安定し、計算能力の限界が相互先読みの無限後退を止めるという形で限界の効用が語られた。第 5 章は、都市・建物・経済ほど複雑なシステムでは仮想の効用関数を最適化する目標を放棄せねばならないと述べたうえで、満足な制約の範囲内での多様性はそれ自体望ましい目的でありうるとし、探索の結果だけでなく探索そのものに価値を認められる点を挙げる。限界の効用が、均衡の安定から創造的活動の価値へと拡がっている。(Source: [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 2 Economic Rationality - Adaptive Artifice]] ch.2 pp.37-38, [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 5 The Science of Design - Creating the Artificial]] ch.5 p.130)
- **限界の乗り越え方が人間と機械で異なることを、第 5 章のチェスの記述が示す**。実局面で良い手を実時間で見つける最良の手続きは今なおグランドマスターの記憶に蓄えられたものだが、いくつかの計算機プログラムは最強の一部を除くすべての人間のグランドマスターを規則的に破る。ただしそのプログラムは人間の達人のようなチェスの知識を持たず、総当たりに近い計算(ときに数億の変化の分析)と定跡の知識、そこそこ洗練された局面の評価関数の組み合わせで成功している。同じ計算限界に対して、蓄積された知識で応じる道と計算量で応じる道が併存することになる。(Source: [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 5 The Science of Design - Creating the Artificial]] ch.5 pp.118-119, [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 3 The Psychology of Thinking - Embedding Artifice in Nature]] ch.3 pp.61-73)
## 未解決の問い
- 限定合理性のもとで経済主体が実際にどう将来の期待を形成し、それを自らの行動の計画にどう使っているのか。サイモンはこの点の経験的情報が特に欠けていると述べている。(Source: ch.2 p.39)
- 満足のいく解と最良の解の隔たりは重要か。Milton Friedman らは重要でないとし、サイモンは大いに重要だとする。この論争の決着はこの章では扱われていない。(Source: ch.2 p.29)
- 限定合理性の内訳、すなわち知識と計算能力の限界が人間の情報処理機構のどの性質から来るのかは、本章では扱われず第 3・4 章に送られている。(Source: ch.2 pp.49-50)
- 実体的合理性と手続き的合理性の境目は、対象システムのどの性質で決まるのか。適応過程そのものが問題にならない条件を一般に述べられるか。
## 関連
- 概念: [[満足化]] / [[市場と組織]] / [[トレードオフ意思決定]] / [[設計の科学]]
- 実体: [[Herbert A. Simon]] / [[The Sciences of the Artificial]]
- ソース: [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 2 Economic Rationality - Adaptive Artifice]] / [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 5 The Science of Design - Creating the Artificial]]
## 出典
- Herbert A. Simon, *The Sciences of the Artificial*, third edition, The MIT Press, 1996, Chapter 2 "Economic Rationality: Adaptive Artifice", pp. 25-50.
- Herbert A. Simon, 同書 Chapter 1 "Understanding the Natural and Artificial Worlds", pp. 1-24.
- Herbert A. Simon, 同書 Chapter 5 "The Science of Design: Creating the Artificial", pp. 111-138.