# 選挙システムのセキュリティ
## 定義
選挙システムのセキュリティとは、有権者登録・投票・集計・結果の集約・監査という選挙サイクル全体を、技術的な誤りだけでなく組織化された不正行為からも守るという工学的・制度的課題である。個々の技術的問題(投票の秘匿性を保ったまま集計を検証可能にする、票を正確に数える等)にはそれぞれ頑健な解があるが、それらを組み合わせて頑健な全体を作ることは自明ではない。その理由は、選挙日が動かせず未完成でもソフトウェアを稼働させねばならないこと、地域・国ごとに要件が異なり時間とともに変化すること、選挙間の長い空白期間に経験者が異動し知見が失われること、脆弱性修正のための更新が別の予期せぬ不具合を生みうること、そして選挙が高ストレスなイベントであり判断ミスの確率を高めることに求められる。(Source: [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 25 New Directions?]] ch.25 §25.5.5)
中心的な設計目標は**ソフトウェア独立性(software independence)**——投票ソフトウェアの未検知の変更・エラーが選挙結果の未検知の変更・エラーを引き起こしてはならないという性質——である。投票ソフトウェアはバグを含みうるし悪意を持ちうるという前提に立ち、これに依存しないことを目指す。実現手段は手作業による再集計の可能性であり、光学スキャンであれば投票箱ごとに票を束ねて保管し、特定の箱だけを迅速に手集計できる**リスクリミティング監査(risk-limiting audit)**を支持する設計が2020年時点の合意である。暗号学的な集計検証(David Chaumに始まりMicrosoft ResearchのElectionGuardに至る「end-to-end verifiable」な仕組み)は集計部分の検証可能性を高めるが、投票端末のユーザーインターフェース自体の信頼性、有権者登録、投票所名簿(pollbook)、結果集約と公表への攻撃という周辺工程の問題は依然として残る。(Source: 同上 ch.25 §25.5.4)
投票機の歴史は、不正の手口と対抗技術の共進化として描かれる。19世紀末〜20世紀初頭の機械式投票機(レバー式)は数百のカム・リンクという「約100ビットのプログラム可能性」を持ち、保守技術者が歯車の歯を欠けさせることで特定候補の得票を過小計上できた。パンチカード式は2000年米大統領選のフロリダ再集計(hanging chad論争)で信頼性の限界を露呈し、これが電子投票機(DRE)への大規模な投資(Help America Vote Act、38億ドル)を招いたが、DRE機は投票者検証可能な監査証跡を欠き、Diebold社のソースコード流出でセキュリティ上の重大な欠陥が発覚した。多くの米国の郡は現在、手集計可能な光学スキャン式の紙投票用紙へ回帰している。(Source: 同上 ch.25 §25.5.1-§25.5.3)
技術的問題を解決しても、選挙不正は登録妨害・郵便投票の悪用・選挙運動資金規制の形骸化・ソーシャルメディアでの扇動的広告・外国勢力の介入・野党候補の資格剥奪や誘拐といった、投票そのものの前後にある政治的な手口によって続けられる。(Source: 同上 ch.25 §25.5.5)
## 横断的知見
- 現時点では本章(Security Engineering 3e 第25章)が唯一のソースであり、横断的な突き合わせはまだ行えていない。分散システムにおける「ビザンチン故障への耐性」や暗号プロトコルの検証可能性を扱う他ソースが ingest され次第、ソフトウェア独立性・暗号学的集計検証(ElectionGuard)の議論と突き合わせる。
## 未解決の問い
- 選挙という制度は、失敗のコストを負う「顧客」(敗者)と制度を設計・運用する側(現職)が一致しないという構造を持つと本章は指摘する(ch.25 §25.5.5)。これは [[セキュリティにおけるインセンティブ不整合]] が第8章・第14章から集約した「守る者と負担者の不一致」という定式化と同型に見えるが、選挙という非市場的な制度にこの経済学的枠組みをそのまま適用してよいかは、本ページのソースだけでは検証できない。
- ソフトウェア独立性という設計目標は、投票以外の高保証が要求されるシステム(電子署名デバイス、金融取引の監査証跡など)にも一般化できる原則か。本章は §18.6.1 の電子署名デバイスとの類似を指摘するにとどまり、体系的な一般化はしていない。
- 暗号学的に検証可能な集計(ElectionGuard等)が投票端末のユーザーインターフェースの信頼性問題を解決しないという本章の指摘は、[[信頼計算基盤(TCB)]] の議論とどう接続するか。未検証。
- リスクリミティング監査の実務(どの投票箱を再集計するかの選び方、閾値の設定)についての詳細な方法論は、本章では名前が挙げられるにとどまり深掘りされていない。
## 関連
- 概念: [[セキュリティにおけるインセンティブ不整合]]
- source: [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 25 New Directions?]](§25.5.1-§25.5.5)
- 実体: [[Ross Anderson]]
## 出典
- Ross Anderson, *Security Engineering: A Guide to Building Dependable Distributed Systems*, 3rd Edition, John Wiley & Sons, 2020, Chapter 25 (§25.5.1-§25.5.5).