## 定義
「記憶の疾患としての精神障害」とは、精神の機能的障害(器質的な脳病変を伴わない障害)を、脳組織そのものの物質的病変としてではなく、脳が能動状態で保持する循環する記憶(circulating memory)とシナプスの長期透過性という「記憶」の水準の疾患として捉える見方である。[[ノーバート・ウィーナー]]が『サイバネティクス』第7章で、計算機に対応するのは空虚な物理構造ではなく構造と蓄積された情報の組み合わせだという計算機と神経系のアナロジーから導いた。統合失調症(厳密な Kraepelin 型)・躁うつ病・パラノイアのように組織学的に脳を同定できない「機能的」障害が、この見立ての主要な対象である。(Source: [[@1961__MITPress__Cybernetics - Chapter 7 Cybernetics and Psychopathology]] ch.7 p.146-147)
## 悪性の心配(malignant worry)という機序
多数のニューロンを含む系では循環過程が長期間安定であることは考えにくく、消滅するか、あるいはますます多くのニューロンを巻き込んで神経プールの不相応な部分を占拠するまで拡大するかのいずれかである。ウィーナーは後者を不安神経症に伴う悪性の心配の機序として提示する。患者は正常な思考過程を行うための「部屋」、すなわち十分な数のニューロンを単純に持ち合わせていない可能性がある、とウィーナーは述べる。病理過程は循環する記憶の水準で始まり、より手強い形で永続的記憶の水準へと繰り返されうる。(Source: ch.7 p.147-148)
## 当時の介入手段への留保
ウィーナーはこの見立てを、当時実践されていた介入手段の評価に接続する。前頭葉切截術(prefrontal lobotomy)は「収容管理を容易にする」という動機と無縁でないと述べたうえで、「彼らを殺せば収容管理はもっと容易になる」という強い皮肉を記す。電気・インスリン・メトラゾールのショック療法についても「暴力的で、不完全にしか理解されず、不完全にしか制御されていない方法」と評しつつ、多くの場合に現時点で採りうる最善の手段でもあると認める。永続的記憶に選択的に介入する薬理学的・外科的手段は存在しないとし、Freud の正統的な系統であれ Jung や Adler の修正版であれ、精神分析および類縁の心理療法をこの空白を埋める営みとして位置づける。(Source: ch.7 p.148-150)
## 横断的知見
- **循環する記憶を有限容量の希少資源として扱う枠組みは、Simon の短期記憶モデルと構造的に同型である**: ウィーナーは、循環する記憶が「神経プールの不相応な部分を占拠する」ことで正常な思考の「部屋」を奪うと述べ、これを悪性の心配の機序とする。[[情報処理システムとしての人間]] が集約する Simon の短期記憶モデルも、短期記憶を約7チャンクという固定容量の資源として扱い、その占有(たとえば暗算での中間結果の保持)が他の認知課題の遂行可能性そのものを左右すると論じる(→ [[チャンクと記憶の制約]])。両者は48年の隔たりを持つ独立の議論でありながら、「能動的に保持される記憶は容量が有限であり、その占有が病理的または課題遂行上の限界を生む」という同じ構造を共有する。ただしウィーナーの議論は病理(占有の拡大が止まらない)を、Simon の議論は正常な認知の限界(占有が最初から小さい)を扱っており、同じ資源制約モデルが正常と異常のどちらの説明にも転用できることを示す。(Source: [[@1961__MITPress__Cybernetics - Chapter 7 Cybernetics and Psychopathology]] ch.7 p.147-148, [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 3 The Psychology of Thinking - Embedding Artifice in Nature]] p.61-63)
## 未解決の問い
- ウィーナーの「循環する記憶」と「永続的記憶」の区分は、後の認知科学における短期記憶/長期記憶(あるいは作業記憶/長期記憶)の区分とどこまで対応するか。本 wiki が収録するソースの範囲では、この対応を明示的に検証した文献はまだない。
- 「神経プールの不相応な部分を占拠する」という悪性の心配の機序は反証可能な形で定式化されているか。ウィーナー自身はこれを計算機とのアナロジーからの推測として提示しており、実証的な裏づけは章内に示されていない。
- 前頭葉切截術・ショック療法へのウィーナーの評価(1948年時点)は、当時の精神医学の主流的な評価とどの程度一致・乖離していたか。
## 関連
- ソース: [[@1961__MITPress__Cybernetics - Chapter 7 Cybernetics and Psychopathology]]
- 概念: [[情報処理システムとしての人間]] / [[チャンクと記憶の制約]] / [[メタ安定障害]] / [[複雑システム障害論]] / [[サイバネティクス]]
- 実体: [[ノーバート・ウィーナー]]
## 出典
- Norbert Wiener, *Cybernetics: or Control and Communication in the Animal and the Machine*, 2nd ed., The MIT Press, 1961, Chapter 7, pp.144-154.