# 準分解可能システム
## 定義
**準分解可能システム(nearly decomposable system)**とは、サブシステム内部の相互作用が、サブシステム間の相互作用より格段に強い系である。完全に分解可能な系(サブシステム間の相互作用が無視できる系。希薄な気体の粒子など)を極限とし、その第二近似として、サブシステム間の相互作用が弱いが無視できない場合を扱う。階層システムの少なくとも一部の種類は、準分解可能システムとしてうまく近似できる。(Source: [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 8 The Architecture of Complexity - Hierarchic Systems]] ch.8 pp.197-198)
この近似から得られる理論的知見は 2 命題にまとまる。
1. 準分解可能系では、各構成サブシステムの**短期の振る舞い**は、他の構成要素の短期の振る舞いからほぼ独立である。
2. **長期**には、任意の構成要素の振る舞いは、他の構成要素の振る舞いに**集約的な形でのみ**依存する。
(Source: [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 8 The Architecture of Complexity - Hierarchic Systems]] ch.8 p.198)
この二重の時間尺度が定義の核である。言い換えれば、階層の**高周波の動学**(構成要素の内部構造に関わる)と**低周波の動学**(構成要素どうしの相互作用に関わる)が分離される。(Source: 同 ch.8 "Summary: Near Decomposability" p.204)
## 行列による特徴づけ
系の動学を係数行列で表したとき、要素をサブシステムごとにまとめて並べ替えると、大きい要素がすべて主対角線に沿った正方部分行列の内側に収まり、その外側の要素はゼロか小さい値になる。この非対角要素の上限として小さい数 ε を取れる行列を**準分解可能行列**と呼ぶ。準分解可能行列で記述できる動的システムが上記 2 命題の性質を持つことは証明されている。(Source: 同 ch.8 pp.198-199)
Simon が挙げる具体例は熱交換である。外壁が完全断熱された建物を、良いが完全ではない断熱の壁で複数の部屋に分け、各部屋をさらに断熱性の劣る仕切りで区画に分ける。区画 i と j が壁を共有しなければ熱拡散係数はゼロ、同じ部屋にあれば大きく、部屋の壁で隔てられていればゼロではないが小さい。初期に区画ごとの温度差があっても、数時間後には同一部屋内の区画間の差はほぼ消え、部屋どうしの差は残る。数日後には建物全体がほぼ一様になる。部屋内の短期平衡が成立した後は、**各部屋に 1 本の温度計があれば系全体の動的挙動を記述でき、区画ごとの温度計は不要になる**。(Source: 同 ch.8 pp.198-200)
## 準分解可能性が稀でない理由と適用範囲
準分解可能性は行列が持つにはかなり強い性質であり、ε を小さく要求するほど、考えうる動的システムのうち定義に合うものはごくわずかになる。にもかかわらず自然界では準分解可能系は稀ではない。各変数が他のほとんどすべての部分とほぼ等しい強さで結びついている系のほうが、はるかに稀で非典型的である。(Source: 同 ch.8 p.200)
Simon が準分解可能性を確認する領域は広い。
- **社会系・組織**: 形式的権限関係は各成員を 1 人の直属上司と少数の部下に結ぶ。権限線以外の伝達経路も、多くは限られた数の上司・部下・同僚へ向かう。部門境界が熱交換の例の壁と同じ役割を果たす。(Source: 同 ch.8 pp.200-201)
- **経済**: ある商品の価格と交換の速度は、少数の他商品の価格・数量と、平均価格水準のようないくつかの集約量にのみ有意に依存する。投入産出行列は準分解可能構造を示す。ただし他の大半のサブシステムの変数と強く結びついた消費サブシステムが存在するため、分解可能性の概念をわずかに修正する必要がある。(Source: 同 ch.8 p.200)
- **物理化学系**: 結合強度は共有結合・イオン結合・水素結合・van der Waals 力の順に桁が異なる。共有結合よりわずかに小さい ε を選べば、系は構成分子というサブシステムに分解する。高エネルギー・高周波の振動は小さいサブシステムに、低周波の振動は大きい系に対応する。不可逆過程の熱力学が要求する「巨視的非平衡かつ微視的平衡」は熱交換の例そのものであり、量子力学の計算でも弱い相互作用を強い相互作用の系への摂動として扱う。(Source: 同 ch.8 pp.201-202)
- **生物**: 器官は他の部分から原料を引き、生成物を渡すが、その入出力は各器官の内部で起きていることに集約的にしか依存しない。循環系や特殊な組織に保持された各種物質の在庫が、単位どうしの影響を緩衝し遅らせる。(Source: 同 ch.8 "Biological Evolution Revisited" pp.204-205)
## 進化と探索における帰結
準分解可能性は自然選択の組み合わせ爆発を回避する条件でもある。ある遺伝子の適応度が他のすべての遺伝子の対立遺伝子に依存するなら、数万の遺伝子を持つ複雑生物では組み合わせが手に負えず、特定の対立遺伝子の適応度への寄与を測ることも不可能になる。準分解可能性のもとでは、同じ器官に対する 2 つの設計の相対的な効率は他の器官の変種にほぼ依存せず、全体の適応度は個々の器官のほぼ独立な寄与の加法的な尺度になる。これは Simon が問題解決の説明に用いる「カチッと鳴る金庫」(正しい設定で音が鳴るため各目盛りを独立に決められる金庫)の利点そのものであり、探索の対象は有効な遺伝子の組ではなく有効な器官の組になる。(Source: 同 ch.8 pp.193-194, pp.204-205)
急速な進化の潜在力は、安定なサブシステムの集合からなり、各サブシステムが他のサブシステム内部の詳細な過程からほぼ独立に動作する複雑システムであれば成立する。準分解可能性の条件が満たされていれば、ある構成要素の効率(ひいては生物の適応度への寄与)は他の構成要素の詳細な構造に依存しない。(Source: 同 ch.8 p.193)
## 記述と理解への帰結
準分解可能系を階層として表現しても失われる情報は比較的少ない。異なる部分に属する下位部分は集約的にしか相互作用しないため、その詳細は無視できる。2 つの大きな分子の相互作用を調べるのに、一方の原子核と他方の原子核の相互作用を逐一考える必要はなく、2 国間の相互作用を調べるのに市民どうしの相互作用を逐一調べる必要はない。多くの複雑システムが準分解可能な階層構造を持つことは、我々がそうした系を理解し記述し「見る」ことを可能にしている主要な要因である。(Source: 同 ch.8 "Near Decomposability and Comprehensibility" p.207)
この命題は逆向きにも読める。世界に階層的でない重要な複雑系があるとすれば、その挙動の解析には基本部分どうしの相互作用の詳細な知識と計算が必要になり、我々の記憶や計算の能力を超えるため、かなりの程度まで観察と理解を免れているだろう。Simon は「世界が階層的だから理解できるのか、理解できない部分が抜け落ちるから階層的に見えるのか」の決着はつけず、進化する複雑性が階層的になりやすいという論証によって前者が少なくとも半分は真だと述べるにとどめる。(Source: 同 ch.8 pp.207-208)
## 横断的知見
- Simon が準分解可能性から導く「サブシステムの内部詳細は外部から見えず、集約量だけが相互作用に入る」という性質は、*A Philosophy of Software Design* の[[情報隠蔽]]がモジュール設計の**規範**として述べることを、自然界の複雑システムの**観察された事実**として述べたものと読める。両者は方向が逆である。情報隠蔽は「設計判断をモジュール内部に埋め込みインタフェースに現さない」ことを設計者に要求するが、Simon は「多くの複雑システムでは事実としてそうなっており、そうであるからこそ我々はそれを理解できる」と主張する。設計規範としての情報隠蔽が有効である根拠が、Simon の側では進化速度(安定な中間形態を持つ系だけが進化する時間を持てた)によって与えられている点も対照的である。(Source: [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 8 The Architecture of Complexity - Hierarchic Systems]], [[@2018__YaknyamPress__A Philosophy of Software Design - Chapter 5 Information Hiding (and Leakage)]])
- *A Philosophy of Software Design* 第 2 章の複雑性の原因である**依存(dependency)**は、Simon の語彙では「非対角要素の大きさ」に対応づけられる。同書は依存を完全には排除できないとしたうえで「依存の数を減らし、残った依存を単純かつ自明にする」ことを目標に置くが、これは Simon の準分解可能行列における「非対角要素の上界 ε を小さく保つ」という条件と構造的に同じ要求である。ただし Simon は、ε を小さく要求するほど条件を満たす系はごくわずかになると明示しており、依存の縮減が原理的にどこまで可能かという問いに定量的な枠を与える点で、同書の定性的な処方より踏み込んでいる。(Source: [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 8 The Architecture of Complexity - Hierarchic Systems]], [[@2018__YaknyamPress__A Philosophy of Software Design - Chapter 2 The Nature of Complexity]])
- **準分解可能性は、第 7 章では複雑性の構造理論としてではなく「還元主義を原理的に守るための条件」として登場する**。第 7 章は全体論と還元主義を論じる文脈で、複雑システムの記述に慣性質量や電圧のような理論的用語を導入し、構成サブシステムの詳細に触れず集約的性質だけを参照する手続きを弱い創発の処理法として示す。そのうえで「全体系における相互作用を研究するあいだ構成要素の詳細をしばしば無視できるのに対し、逆に個々のサブシステムの短期の振る舞いは、サブシステム間のより遅い相互作用を無視して詳細に記述できることが多い」と述べ、鉄鉱石・銑鉄・鋼板・鋼製品という密接に関連する市場を他のすべての需給関係が一定という仮定のもとで研究する経済学の例を挙げ、これを「次章で詳しく論じる」と予告する。第 8 章が二重の時間尺度として提示する定義の 2 命題が、第 7 章では**還元主義に与しつつ各水準にほぼ独立な理論を築ける根拠**として使われている。第 8 章単独では「複雑システムはそうなっている」という経験的観察に見えるものが、第 7 章と並べると Simon の科学哲学上の立場を支える柱であることが分かる。(Source: [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 7 Alternative Views of Complexity]], [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 8 The Architecture of Complexity - Hierarchic Systems]])
- **カタストロフィ理論で説明される現象が、準分解可能システムとしても記述できる**。第 7 章はカタストロフィの典型例として、トウヒ林に大発生するシャクトリムシの個体数モデルを挙げる。急速に増殖する虫は最大密度の平衡に速やかに達する一方、トウヒ林の緩やかで継続的な成長が虫の個体数の上限を徐々に変え、林の密度が臨界を超えると個体数が爆発する。Simon はこの例に脚注を付し、次章でこれと同じ例が準分解可能システムとして記述できることを見る、と予告する。速い虫の動学と遅い林の動学という**二重の時間尺度**は準分解可能性の定義そのものであり、同一の系が「カタストロフィ」と「準分解可能性」のどちらの語彙でも記述されうることを示す。第 7 章が現在の複雑性研究の諸道具を「代替であると同時に補完でもある」と位置づける主張の、具体的な事例になっている。(Source: [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 7 Alternative Views of Complexity]], [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 8 The Architecture of Complexity - Hierarchic Systems]])
## 未解決の問い
- 同一の系がカタストロフィ理論の語彙でも準分解可能性の語彙でも記述できるとき、どちらの記述を選ぶべきかを決める基準は何か。第 7 章は脚注で対応関係を指摘するだけで、選択の基準を与えていない。
- Simon の 2 命題は準分解可能行列で記述できる線形の動的システムについて証明されたものである。相互作用が強い非線形性を持つ系にどこまで拡張できるかは本章では扱われていない。
- 経済における消費サブシステムのように、他の大半のサブシステムと強く結びついた「横断的サブシステム」が存在するとき、分解可能性の概念をどう修正すべきか。Simon は修正が必要だと述べるだけで、修正の一般的な形式は示していない。
- ε をどの大きさに取るかで系の分解の仕方が変わる(共有結合よりわずかに小さい ε を選べば分子に分解する)。実務上、ε の選び方をどう較正すればよいか。
- 階層的でないがゆえに我々の観察と理解を免れている複雑系があるとして、その存在をどう検出できるか。Simon はこの問いを提起したまま決着をつけていない。
- ソフトウェア設計における「モジュール分割が良いか悪いか」の判定に、準分解可能行列の非対角要素という尺度を実際に持ち込めるか。持ち込むとして、何を相互作用の「強さ」として測るべきか。
## 関連
- 概念: [[階層的複雑性]] / [[状態記述と過程記述]] / [[創発と還元主義]] / [[決定論的カオス]] / [[情報隠蔽]] / [[深いモジュール]] / [[ソフトウェア複雑性]]
- 実体: [[Herbert A. Simon]] / [[The Sciences of the Artificial]]
- ソース: [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 8 The Architecture of Complexity - Hierarchic Systems]] / [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 7 Alternative Views of Complexity]]
## 出典
- Herbert A. Simon, *The Sciences of the Artificial*, third edition, The MIT Press, 1996, Chapter 8 "The Architecture of Complexity: Hierarchic Systems", pp. 197-208.
- Herbert A. Simon, *The Sciences of the Artificial*, third edition, The MIT Press, 1996, Chapter 7 "Alternative Views of Complexity", pp. 171-172, p. 175(還元主義との関係およびシャクトリムシの例)。
- 本章が理論の出所として挙げるのは H. A. Simon and A. Ando, "Aggregation of Variables in Dynamic Systems," *Econometrica*, 29(April 1961): 111-138 である。