# 満足化 ## 定義 満足化(satisficing)とは、「十分によい(good enough)」代替案を受け入れる選択の様式を指す。現実世界の複雑さに直面した企業は、最良の答えが知りえない問いに対して十分によい答えを見つける手続きへ向かう。現実の経済主体が満足化する者(satisficer)であるのは、少ないほうを多いより好むからではなく、計算機の有無にかかわらず現実世界の最適化が不可能で選択の余地がないからである。(Source: [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 2 Economic Rationality - Adaptive Artifice]] ch.2 pp.28-29) ## 最適化との対比 満足化は最適化(optimization)の劣化版ではなく、要求する前提が異なる別種の選択様式である。 - **共通の尺度を要求しない**。最適化が要求して満足化が要求しないものの一つが、すべての代替案が共通の効用関数で測れることである。人間の選択が一貫的でも推移的でもないことを示す証拠は大量にあり、効用関数の存在は支持されない。(Source: ch.2 p.29) - **満足の基準は必要**。ただし満足化の理論でも何らかの満足の基準は要る。信用を失った効用関数に代わって、人間の利得・快・幸福・満足を測る現実的な尺度が求められる。(Source: ch.2 p.29) - **モデルの現実性と解の質のトレードオフ**。OR(オペレーションズリサーチ)は大幅に単純化したモデルで最適化し、AI のヒューリスティック探索はほぼ現実的なモデルで満足化する。前者は現実の問題を計算要件に合うよう成形する代償を払い、後者は最適解でなく満足解しか得られない代償を払う。どちらが好ましいかは場合による。(Source: ch.2 pp.27-28) - **単純化された近似の最適解は現実の最適解ではない**。線形近似で置き換えた問題に対して最適な決定が現実世界で最適であることは稀だが、経験上しばしば満足のいくものになる。この事実自体が、最適化の実務が実は満足化に帰着していることを示している。(Source: ch.2 p.27) ## 願望水準という計算機構 満足化を単なる態度でなく機構として成り立たせるのが願望水準(aspiration level)である。 - 選択の心理学の知見によれば、満足の「温度計」は効用関数と違って正の値に限られず、最低限の満ち足りを表す零点を持つ。零より上は満足の度合い、下は不満の度合いを表す。比較的安定した生活状況にある人を定期的に測ると、零から大きく離れた値はまれで、離れた測定値は時間とともに零へ回帰する傾向がある。(Source: ch.2 p.29) - 願望は多次元である。快い仕事・愛・よい食事・旅行などの各次元について、到達可能性の期待が願望水準を定め、現在の達成水準と比較される。達成が願望を上回れば満足が正、願望が達成を上回れば不満となる。(Source: ch.2 p.30) - 次元間の比較には単純な機構がない。一般に、ある次元の小さな損失を埋め合わせるには別の次元の大きな利得が要るため、システムの正味の満足は履歴依存になり、人が補償的な相殺を釣り合わせるのは難しい。(Source: ch.2 p.30) - 探索の駆動則は次のとおり。ある代替案は全次元で願望を満たせば満足化する。そのような代替案が見つからなければ新たな代替案の探索が始まり、その間に一つ以上の次元の願望水準が徐々に下がり、満足のいく新代替案が見つかるか既存の代替案が満足化するに至る。(Source: ch.2 p.30) - この機構を用いる選択理論は、人間の計算の限界を認めており、効用最大化の理論よりも意思決定の経験的観察にはるかによく合う。(Source: ch.2 p.30) ## 満足化が生む安定性 - 囚人のジレンマにおいて、プレイヤーが最適な利得ではなく満足のいく利得を目指すなら、協調解が安定でありうる(Roy Radner)。(Source: ch.2 pp.37-38) - 満足化する消費者と生産者からなる市場は、パレート最適性の定理が立脚する条件を満たさない。それでも実験市場のデータは、最適化の仮定なしに市場清算が達成されることを示す。市場について堅い経験的証拠がある性質は市場清算だけである。(Source: ch.2 pp.32-33) - 進化における企業と生物種の適応はいずれもヒューリスティック探索の事例であり、したがって局所最適化ないし満足化である。(Source: ch.2 p.48) ## 横断的知見 - **第 2 章の満足化は主体の性質の記述だが、第 5 章では探索の計算量的性質として特徴づけられる**。第 2 章は「人ができないことはしない」という形で満足化を選択様式として述べた。第 5 章はこれに、多くの満足化の状況で受容水準を満たす代替案が見つかるまでの探索の期待長が、水準の高さには依存するが探索すべき全体の大きさにはほとんど依存しないという性質を加える。縫えるほど鋭い針を干し草の山から探す時間は、鋭い針の分布密度には依存するが山全体の大きさには依存しない。この性質があるからこそ満足化は設計の手法として使える。(Source: [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 2 Economic Rationality - Adaptive Artifice]] ch.2 pp.28-29, [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 5 The Science of Design - Creating the Artificial]] ch.5 pp.120-121) - **満足化の適用範囲が、所与の代替案からの選択から代替案の合成へ拡張される**。第 2 章は主として与えられた選択肢からの選択を論じた。第 5 章は、代替案の集合が抽象的な意味では与えられていても実際上意味のある意味では与えられていない状況(巡回セールスマン問題)を経由し、さらに代替案が構成的にはまったく与えられず合成せねばならない設計問題へ満足化を延ばす。探索長が全体の大きさに依存しないという性質が、この拡張を正当化する論拠になっている。(Source: [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 2 Economic Rationality - Adaptive Artifice]] ch.2 pp.27-30, [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 5 The Science of Design - Creating the Artificial]] ch.5 pp.120-121) - **満足化は設計の論理を最適化ではなく充足の問題として立てさせる**。第 5 章は設計の解を「指定の制約を満たす可能世界へ導く行動の系列」と定義し、満足化の目標のもとでは求める可能世界がまず一意でないため、探索は目標達成の必要条件ではなく十分条件を求める探索になると明記する。第 2 章が効用関数の不在を最適化が要求して満足化が要求しないものとして挙げたのと、同じ構造の主張が論理の側から与えられている。(Source: [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 2 Economic Rationality - Adaptive Artifice]] ch.2 p.29, [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 5 The Science of Design - Creating the Artificial]] ch.5 p.124) - **解が一意でないという満足化の帰結から、第 5 章はスタイルという第 2 章にない主題を引き出す**。満足な設計を求める以上、探索の順序と生成器・検定への分業は資源の効率だけでなく最終的な設計の性格をも左右する。外から内へ設計する建築家と内から外へ設計する建築家は、満足な建物が備えるべき性質について合意していてもまったく異なる建物にたどり着く。最適化の枠組みでは過程の違いは解に影響しないため、この主題は満足化を前提にして初めて成立する。(Source: [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 5 The Science of Design - Creating the Artificial]] ch.5 p.130, [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 2 Economic Rationality - Adaptive Artifice]] ch.2 pp.28-30) - **願望水準に代わる打ち切り機構として、第 5 章は上位水準の計画の評価を挙げる**。第 2 章は満足化の機構を願望水準の上下として心理的に描いた。第 5 章の Manheim の高速道路位置決め手続きでは、上位水準の計画に付けた値が「次にどこを探索するか」と「いつ探索をやめて解を満足と認めるか」の双方に答え、探索の操舵機構であると同時に打ち切りの満足化基準として働く。心理的な機構と設計手続き上の機構が同じ役割を担っている。(Source: [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 2 Economic Rationality - Adaptive Artifice]] ch.2 p.30, [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 5 The Science of Design - Creating the Artificial]] ch.5 p.126) - **伝統的な工学設計はもともと満足化の枠で動いていた、という実務の観察が第 5 章で加わる**。第 5 章は、伝統的な工学の設計手法が最大・最小よりも不等式すなわち満足な性能の仕様をはるかに多く用い、「性能指数(figures of merit)」が「より良い/より悪い」の比較は許すが「最良」の判定をめったに与えないと述べる。第 2 章が満足化を経済学の完全合理性への反証として提示したのに対し、こちらは工学の既存実務の追認として提示されている。(Source: [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 5 The Science of Design - Creating the Artificial]] ch.5 p.119, [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 2 Economic Rationality - Adaptive Artifice]] ch.2 pp.28-29) ## 未解決の問い - 効用関数に代わる「満足の温度計」を、経済主体の分析に使える形でどこまで操作的に定義できるか。本章は満たすべき性質(零点を持つ、零へ回帰する)を挙げるにとどまる。(Source: ch.2 p.29) - 願望水準が下がる速さは何で決まるのか。本章は「徐々に下がる」とだけ述べ、下降則を与えていない。(Source: ch.2 p.30) - 満足解と最適解の隔たりが実質的に重要かどうかについて、Milton Friedman らとサイモンの見解は分かれたままである。(Source: ch.2 p.29) - 満足解が一意でないとき、設計過程の順序の違いから生じるスタイルの差を「良い/悪い」で評価すべきか、望ましい変異と見るべきか。第 5 章は後者の可能性を示唆するが判断を保留し、第 6 章へ送っている。(Source: ch.5 p.130) - 満足化の探索長が受容水準の高さに依存するとして、その依存の仕方を定量的に述べられるか。第 5 章は「密度に依存し全体の大きさに依存しない」とだけ述べ、水準と探索長の関係式は与えていない。(Source: ch.5 pp.120-121) ## 関連 - 概念: [[限定合理性]] / [[市場と組織]] / [[トレードオフ意思決定]] / [[設計の科学]] - 実体: [[Herbert A. Simon]] / [[The Sciences of the Artificial]] - ソース: [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 2 Economic Rationality - Adaptive Artifice]] / [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 5 The Science of Design - Creating the Artificial]] ## 出典 - Herbert A. Simon, *The Sciences of the Artificial*, third edition, The MIT Press, 1996, Chapter 2 "Economic Rationality: Adaptive Artifice", pp. 25-50. - Herbert A. Simon, 同書 Chapter 5 "The Science of Design: Creating the Artificial", pp. 111-138.