# 決定論的カオス
## 定義
**カオス系(chaotic system)**とは、初期条件が無限小でも乱されると経路が根本的に変わりうる決定論的な動的システムである。決定論的でありながら、小さな摂動が経路に大きな変化をもたらすため、時間を通じた詳細な挙動は予測不能になる。理論としてのカオスは堅実な数学であり、Poincaré にまで遡る長い歴史を持つが、数学的な扱いにくさから今世紀半ばを過ぎるまで進展はわずかだった。新たな進展の主要な源泉は、計算機によってカオス的挙動を表示し探索できるようになったことである。(Source: [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 7 Alternative Views of Complexity]] ch.7 "Complexity and Chaos" p.176)
**奇妙なアトラクタ(strange attractor)**は、カオスが認識させた新しい一般化された平衡の概念である。古典的な非線形理論では、系は安定な平衡に至るか、惑星の軌道のように極限周期軌道で永久に振動する。カオス系はこれに加えて、状態空間のある領域に入り込んで永久にそこに留まりうる。その領域が奇妙なアトラクタである。内部で運動は止まらず予測可能にもならないが、決定論的でありながらランダムに見える。(Source: 同 ch.7 p.178)
Simon が挙げる模型はビリヤードである。理想的な正方形の台を正確に 45 度で横切るよう狙われた球は、辺で反射しながら出発点に戻り、その長方形の経路を無限に繰り返す。しかし 45 度をわずかに増減させれば、球は決して出発点に戻らず、最終的には台上の任意の場所へいくらでも近づく経路をたどる。台の表面全体がカオス的挙動の奇妙なアトラクタになったのであり、ほぼ等しいが異なる初期角度は絶えず発散する経路を生む。(Source: 同 ch.7 p.178)
## 認知の歴史と計算機の役割
カオスへの注目の高まりは、動的システムについての一般的理解を背景に置いて見るべきである。線形微分方程式系については一般的な理論と閉じた形の解を長く持っていたが、非線形系については、特殊な境界条件下の一部の重要な系を除けば、知識は局所的挙動の安定性・不安定性を定性的に解析し、到達可能な状態空間を離散的な領域に分ける方法に限られていた。複雑な非線形系は主として計算機による数値シミュレーションで研究するほかなく、過去半世紀の大型計算機とスーパーコンピュータの大半は、航空機・原子炉・大気・乱流系の動学を記述する偏微分方程式系の数値シミュレーションに費やされてきた。(Source: 同 ch.7 p.177)
カオス系は標準的な教科書では扱われなかったため、当時の非線形系の理論は乱流のような現象を集約的できわめて近似的な水準でしか扱えなかった。1970 年代後半から 1980 年代初頭の計算機による発見が大きな関心と興奮を生んだのはこの状況においてである。単純な非線形系の数値計算は、その系が秩序ある挙動からカオス的挙動へ移る点を広いクラスについて予測する予期せぬ不変量(「普遍数」)を明らかにした。高速計算機が現れるまで、そうした規則性は不可視だった。気象学者 E. N. Lorenz は 1960 年代初頭に、天候がカオス現象である可能性——シンガポールの蝶が羽ばたくことでニューヨークに雷雨が起こりうるという可能性——を探り始めており、物理系が実際にカオス的に振る舞う確かな実験的証拠は 1970 年代後半に現れ始めた。(Source: 同 ch.7 pp.176-177)
## カタストロフィ理論との対比
**カタストロフィ(catastrophe)**は、系が 2 つ以上の相異なる定常状態(静的平衡や周期的循環)を取りうるとき、一方の状態にある系がパラメータの中程度の変化によって突然もう一方へ、あるいは変数が限りなく増大する不安定状態へ移ることを指す。カタストロフィ理論も非線形動的システムを挙動の様態によって分類する堅実な数学の体系であり、数学者 R. Thom が 2 変数系と 3 変数系について、起こしうるカタストロフィの種類による位相的分類を構成した。1968 年頃に登場して聞こえのよい波紋を広げたが、数年のうちに公衆の視界からほぼ消えた。(Source: 同 ch.7 "Catastrophe Theory" p.175)
Simon の評価は明確である。カタストロフィの機構は、それが生じる状況では有効でメタファーとしても喚起的だが、実際にそれ以上の解析へ導く状況は限られた数しか見つかっていない。公衆の関心を引いた当初の応用の大半(脅かされた犬が突然攻撃に転じるか恐慌をきたして逃げるか、といった例)は、すでに馴染みの現象についての事後的な説明だった。このためカタストロフィ理論は、25 年前に比べて今日の複雑性の文献においてはるかに目立たない。**カタストロフィの機構よりカオスの機構のほうが一般的であり、かつ適用範囲も広い**。ゆえに複雑システムの研究において、今後もカオスがカタストロフィより大きな役割を果たすと期待できる。(Source: 同 ch.7 pp.175-176, p.178)
## 「カオス的」は「管理不能」ではない
Simon がこの節で最も強調するのは、不吉な語調に引きずられないことである。理解することは予測できることを含意しないが、予測できないことは管理できないことを含意しない。(Source: 同 ch.7 "Rationality in a Catastrophic or Chaotic World" pp.178-179)
- 証拠に照らせば、世界で出会う複雑システムのすべてがカオス的だと考えるべきでも、ごく少数しかそうでないと考えるべきでもない。経済の時系列にカオスを見出す試みはあったがこれまでの結果は決定的でなく、脳におけるカオスの明確な実証を Simon は知らない。ただし正常な心臓と障害のある心臓の機能にカオスがまだ不明確な形で役割を果たす証拠は増えている。(Source: 同 ch.7 pp.178-179)
- 乱流は水力・空力の状況と人工物に頻繁に現れるが、そこでは未来は詳細には予測できなくとも**集約的な現象としては管理可能**である。設計者は乱流を生み出し、かつそれにうまく対処する系(航空機や船舶)をしばしば構築している。竜巻やハリケーンの経路は悪名高いほど不安定だが、短期には警報を受けて避難できる程度には安定している。(Source: 同 ch.7 p.179)
- Newton 以降、天文学者は 2 体系の運動を計算できたが、3 体以上では近似しか得られず、太陽系を含む 3 体以上の重力系は一般にカオス的だと信じるだけの理由がいまではある。しかしそのカオスから不都合な帰結を予期する理由はない。その存在は、天文学者がかなり長期の惑星位置の正確な予測において挫折することを意味するにすぎない。(Source: 同 ch.7 p.179)
- カオス系をその奇妙なアトラクタの内部で望ましい性質を持つ小さな近傍に制限し、カオスを飼い慣らすフィードバック装置の考案が大きく進んだ。カオスは単に許容できるノイズになる。これは**予測を制御で代替する(substitution of control for prediction)**例であり、先行する諸章の議論と一致する。(Source: 同 ch.7 p.179)
## 横断的知見
- **第 2 章が経済について定性的に述べたことと、第 7 章がカオスについて技術的に述べたことは、噛み合いそうで噛み合わない**。第 2 章は「企業と経済の進化は容易に予測できる均衡へも最適解へも導かず、ほぼ同一の出発点から発散する経路をたどる傾向を持つ動的システムがみなそうであるように、均衡理論は現状についても将来についてもほとんど何も語らない」と述べる。これは第 7 章のカオスの定義そのものの記述に見える。ところが第 7 章で Simon は「経済の時系列にカオスを見出す試みはあったが、これまでの結果は決定的でない」と慎重に留保する。**発散的な経路という定性的な観察と、技術的な意味でのカオスの実証とを Simon は区別しており、前者から後者を主張しない**。この節度が第 7 章全体の姿勢(概念の価値は喚起する修辞ではなく具体的な答えを出す力で決まる)を体現している。(Source: [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 7 Alternative Views of Complexity]], [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 2 Economic Rationality - Adaptive Artifice]])
- **「予測を制御で代替する」という処方は、第 2 章の予測にもとづくフィードフォワードの危険と対をなす**。第 2 章は、予測にもとづくフィードフォワードが制御を精密にしうる一方、系が自らの予測に過剰反応して不安定な振動に入る危険を持つと論じ、投機バブルをその典型に挙げた。第 7 章はカオス系に対して、正確な予測を諦め、奇妙なアトラクタ内の望ましい近傍に系を閉じ込めるフィードバック装置を置くという逆向きの解を示す。両章を並べると、Simon の一貫した主張は「予測の精度を上げることではなく、予測が効かない領域で系を制御可能な範囲に囲い込むこと」にあると読める。第 2 章が同じ論脈で述べる「不確実性に直面したとき、予測より合意された仮定と仕様による標準化と調整のほうが有効でありうる」も同じ方向を向く。(Source: [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 7 Alternative Views of Complexity]], [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 2 Economic Rationality - Adaptive Artifice]])
- カオスと階層は、複雑システム研究における**競合する焦点であって競合する主張ではない**。第 7 章は現在の波の諸道具(カオス、カタストロフィ、遺伝的アルゴリズム、セル・オートマトン)を、次章で展開する階層的複雑性への接近法にとって「代替であると同時に補完でもある」と位置づけ、結論では階層システムをそれらと並ぶ焦点の 1 つとして列挙する。すなわち Simon は階層を複雑性の唯一の説明とは主張していない。第 8 章が階層の優位を論じるのは「自然界の複雑システムの大部分が経験的に階層構造を示す」という統計的な観察と、進化速度の論証にもとづくのであって、カオス系が存在しないという主張ではない。第 8 章だけを読むと見落としやすい限定である。(Source: [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 7 Alternative Views of Complexity]], [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 8 The Architecture of Complexity - Hierarchic Systems]])
## 未解決の問い
- 第 7 章の時点で「評決はまだ出ていない」とされた概念群(カタストロフィ、カオス、遺伝的アルゴリズム、セル・オートマトン)は、その後どう評価が定まったか。とりわけ Simon が期待した「カオスがカタストロフィより大きな役割を果たす」という予測は当たったか。
- 経済の時系列におけるカオスの検出が決定的でないのは、経済がカオス的でないからか、それとも検出手法の限界か。Simon はこの区別に答えていない。
- 「予測を制御で代替する」フィードバック装置は、どの条件下で設計可能か。Simon は装置の存在を挙げるだけで、設計可能性の一般条件を述べていない。
- ソフトウェアシステムの挙動に技術的な意味でのカオス(初期条件への鋭敏な依存)がどこまで存在するか。第 2 章と第 7 章が示す Simon の節度に倣うなら、「予測困難である」ことからただちに「カオス的である」と結論してはならない。
- カオス系と準分解可能系の関係はどうなっているか。第 7 章は両者を並べて論じるが、カオス的なサブシステムを含む準分解可能系が成立しうるかには触れていない。
## 関連
- 概念: [[創発と還元主義]] / [[階層的複雑性]] / [[準分解可能システム]] / [[フィードバックループ]] / [[制御ループの安定性とタイムラグ補償]] / [[複雑システム障害論]]
- 実体: [[Herbert A. Simon]] / [[The Sciences of the Artificial]]
- ソース: [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 7 Alternative Views of Complexity]]
## 出典
- Herbert A. Simon, *The Sciences of the Artificial*, third edition, The MIT Press, 1996, Chapter 7 "Alternative Views of Complexity", pp. 175-179.
- 本章がカオスの起点として挙げるのは H. Poincaré, *Les Méthodes Nouvelles de la Mécanique Céleste* (Paris: Gauthier-Villars, 1892) である。
- 文献案内として本章が挙げるのは P. Cvitanović (ed.), *Universality in Chaos* (Bristol: Adam Hilger, 1986)、および M. J. Feigenbaum, "Universal Behavior in Nonlinear Systems," *Los Alamos Science*, 1(1980): 4-27 である。
- カタストロフィ理論については R. Thom, *An Outline of a General Theory of Models* (Reading, MA: Benjamin, 1975) を挙げる。