# 暗黙知 Navigation: [[index]] | [[overview]] ## 定義 暗黙知(tacit knowledge)は、Walter Vincenti が第6章で導入する、言葉・図・表として明示できない(implicit, wordless, pictureless)工学知識の種別である。[[記述的知識と規範的知識]]がいずれも明示的知識(explicit knowledge)であるのに対し、暗黙知はこれらに加わる第3の種別として位置づけられる。事実として言語化できないからといって、それが知識でないわけではない――「メアリーは自転車の乗り方を知っている」「あの作業者たちは良いリベットの打ち方を知っている」という言い方が示すように、これも紛れもなく知識の一種である、と Vincenti は述べる。(Source: [[@1990__JohnsHopkins__What Engineers Know and How They Know It - Chapter 6 Design and Production - The Innovation of Flush Riveting in American Airplanes, 1930-1950]], p.199) 第6章での用法は、現場の技能と実践的判断の2系統に大別される。第一に、作業者がディンプルを打ち込んだりリベットを打ち上げたりする**手作業の技能(neuromuscular skills)**――「図面から飛行機は作れない(You can't build an airplane from the drawings)」という North American 社の技術者の言葉が象徴するように、写真や図解付きのマニュアル(George Rechton の *Aircraft Riveting Manual* など)を用いても最終的には個人の実地経験によってしか獲得できない。第二に、技術者の**実践的判断(intuitive judgment)**――生産技術者がリベット接合コストの将来的な低下を見積もる勘や、構造技術者が不完全な初期データのもとで許容強度を導く際の「教育された推測(educated guessing)」――である。言葉・図・表はこの暗黙知を示唆し促進する助けにはなるが、知識そのものは結局のところ個人の実践と経験からしか得られない、と著者は強調する。(Source: 同上, p.199) Vincenti は、暗黙知と規範的知識がいずれも「手続き(procedure)」に関わる点で密接に関連するとし、両者をあわせて「**手続き的知識(procedural knowledge)**」――哲学者 Gilbert Ryle の言う「knowing how(やり方の知識)」――と呼ぶ。ただし、暗黙知が knowing how の全てを構成するわけではない(規範的知識も knowing how の一部である)とも注記する。第6章の事例では、生産のための知識の学習が規範的・暗黙的双方の手続き的知識に強く依存していたのに対し、詳細設計(沈頭リベットの選定など)は主に記述的知識・規範的知識という2種の明示的知識に依存し、暗黙知への依存は最小限だった(ただし「教育された推測」のような形で部分的に関与した)。著者は、生産の暗黙知への依存度は自動化が進むほど下がる一方、記述的知識(材料物性など)は残り続けるだろうと推測し、また設計の階層のより上位の段階では「設計の感覚(design feeling)」に関わる暗黙知への依存が大きくなるだろうとも述べている。(Source: 同上, p.199-200) > [!note] 本 concept は本書で初めて tacit knowledge に言及した第6章の用法を起点とする。第6章本文には哲学者 Michael Polanyi への直接の言及が無かったが、第7章で判明したのは、Polanyi が第7章に6回登場するもののいずれも[[動作原理]](operational principle)をめぐる文脈であり、Polanyi の原語 tacit knowledge そのものへの直接言及は第7章にも見当たらないという事実である。つまり Vincenti は第6章で暗黙知の概念を(Polanyi を明示的に引かずに)独自に導入し、第7章では同じ Polanyi の別概念(動作原理)を導入している。両者は「言語化・形式化しきれない知の次元を扱う」という点で通底するが、Vincenti 自身がこの2つを明示的に結びつけている箇所は本書中に見当たらない。詳細は [[動作原理]]・[[Michael Polanyi]] を参照。 ## 横断的知見 - Paul Nightingale(2014)は Polanyi の原著(1958年『Personal Knowledge』、1966年『The Tacit Dimension』、1968年『Life's Irreducible Structure』等)に直接遡り、暗黙知を「静的な背景知識」ではなく機能を創造的に推論する能動的・動的過程として再解釈する。Polanyi が化学者として原子配置から創発的性質(金が金色である理由等は量子力学だけからは説明できない)を説明する経験に基づき提示した focal awareness(注意の焦点)/ subsidiary awareness(付随的な意識)の区別、および indwelling(反復的暴露による知識の内面化)という認識論的メカニズムを紹介する。これは Vincenti(1990)第6・7章が暗黙知を工学実務の現れ方(手作業の技能・実践的判断・視覚的思考)として記述するにとどまるのと対照的で、両者を合わせると「暗黙知が工学でどう現れるか」(Vincenti)と「暗黙知がなぜ・どう生成されるか」(Nightingale/Polanyi)という相補的な理解が得られる。(Source: [[@2014__SPRU__What is Technology Six Definitions and Two Pathologies]], [[@1990__JohnsHopkins__What Engineers Know and How They Know It - Chapter 6 Design and Production - The Innovation of Flush Riveting in American Airplanes, 1930-1950]]) - Nightingale(2014)はさらに、技術における対称性の破れ(symmetry breaking)が、Vincenti の言う「教育された推測」のような漠然とした暗黙知の発露ではなく、設計者が理解を積み上げ統合して「類似性の感覚」を反実仮想的な未来設定へ想像的に外挿する能動的なプロセスとして生じると論じる。この「能動的統合であり、単なる受動的文脈ではない」という Nightingale の主張は、Vincenti が暗黙知を「設計の階層のより上位段階ほど依存度が高まる」と推測しつつもそのメカニズムを論じなかった([[暗黙知]] 既存の「未解決の問い」参照)点に、Polanyi 経由で一つの答えを与えるものである。(Source: 同上) - 第6章は tacit knowledge を Polanyi への明示的な参照なしに導入し、第7章は Polanyi を動作原理の文脈で6回引用するが tacit knowledge という語そのものは使わない。この非対称は、Vincenti が Polanyi から借用した概念(動作原理)と、Polanyi と関連はするが独立に導入した概念(暗黙知)を区別して扱っていることを示唆する。次に調べるべきは、Vincenti が意図的にこの2つを切り分けたのか、単に参照の便宜によるものかである(下記「未解決の問い」参照)。(Source: [[@1990__JohnsHopkins__What Engineers Know and How They Know It - Chapter 6 Design and Production - The Innovation of Flush Riveting in American Airplanes, 1930-1950]], [[@1990__JohnsHopkins__What Engineers Know and How They Know It - Chapter 7 The Anatomy of Engineering Design Knowledge]]) - 第6章は暗黙知を生産(production)の文脈(手作業の技能・実践的判断)で導入したのに対し、第7章はこれを設計の手段(design instrumentalities)カテゴリの中で再登場させ、視覚的思考(visual thinking)と判断力(judgmental skills)という2つの具体例を追加する。視覚的思考については Eugene Ferguson の議論(「対象・絵・視覚イメージ」を言語とする非言語的思考)を引きつつ、「優れた設計者は例外なく優れた視覚的思考者である」と述べ、判断力については「経験からしか学べない」「他の知識種別以上に個人的な性質を持つ」と述べる。第6章が生産の暗黙知(手作業の技能)を扱ったのに対し、第7章は設計の暗黙知(視覚的思考・判断力)を扱っており、両者を合わせると暗黙知が工学の全域(生産と設計の双方)に及ぶことが分かる。(Source: 同上) ## 未解決の問い - Vincenti が第6章で暗黙知を導入する際に Polanyi を明示的に引かなかった理由は何か。第7章で Polanyi を6回引用しながら tacit knowledge という語自体は使っていない事実と合わせて考えると、Vincenti が両者を意図的に別概念として扱った可能性と、単に第6章執筆時点では Polanyi の暗黙知論を直接参照しなかった可能性の、どちらが妥当かは本文からは判定できない。 - 「設計の階層の上位段階ほど暗黙知への依存が大きくなる」という第6章末の推測は、第7章では明示的に展開されない。判断力(judgmental skills)が上位レベルの設計(project definition 等)でどう働くかは、本書の対象範囲(下位レベルの通常設計)の外にあり、今後の検証課題として残る。Nightingale(2014)の「能動的統合」論はこの推測にメカニズムの手がかりを与えるが、Vincenti の設計階層論と直接突き合わせた記述は本文になく、依然として検証課題である。 - 自動化の進展が暗黙知の比重を下げるという著者の主張は、現代のソフトウェア工学・AI 支援設計にどこまで敷衍できるか。 - Nightingale(2014)が言う「対称性の破れの人為的創出」(設計者が理解を統合し類似性の感覚を反実仮想的な未来へ外挿するプロセス)は、Vincenti の「教育された推測(educated guessing)」や「設計の感覚(design feeling)」と同一の現象を指しているか、それとも異なる粒度の議論か。両者を明示的に対応づけた記述はまだ vault 内に無い。 ## 関連 - 概念: [[記述的知識と規範的知識]] — procedural knowledge として規範的知識と対をなす。本 concept と対で理解する。 - 概念: [[工学設計知識]] — 本 concept が細分化する工学知識のハブ concept。 - 概念: [[動作原理]] — Polanyi に由来する別概念。本 concept との異同は上記ノート・横断的知見を参照。 - 概念: [[技術の定義]] — 暗黙知を技術理解の認識論的基礎として位置づける Nightingale(2014)の議論。 - 実体: [[Michael Polanyi]] / [[Paul Nightingale]] - ソース: [[@1990__JohnsHopkins__What Engineers Know and How They Know It - Chapter 6 Design and Production - The Innovation of Flush Riveting in American Airplanes, 1930-1950]] / [[@1990__JohnsHopkins__What Engineers Know and How They Know It - Chapter 7 The Anatomy of Engineering Design Knowledge]] / [[@2014__SPRU__What is Technology Six Definitions and Two Pathologies]] ## 出典 - Walter G. Vincenti, *What Engineers Know and How They Know It*, The Johns Hopkins University Press, 1990, Chapter 6, pp. 199-200; Chapter 7, pp. 220-222. - Paul Nightingale, "What is Technology? Six Definitions and Two Pathologies", SPRU Working Paper Series, SWPS 2014-19, October 2014, §8.