# 敵対者の類型論 ## 定義 敵対者の類型論とは、セキュリティ工学における脅威モデル設計の出発点として、想定すべき敵対者(opponent / adversary)を**動機**を軸に分類する枠組みである。Ross Anderson は敵対者を4類型に整理する: (1) **スパイ(spies)** — 国家による諜報・攻勢的サイバー作戦。Five Eyes・中国・ロシア・その他の国家がそれぞれ異なる能力と戦略を持つ。(2) **犯罪者(crooks)** — 金銭を目的とし、地下市場を介して分業化・産業化した犯罪インフラを運用する。(3) **研究者(geeks)** — 脆弱性を発見し公表・報告する立場で、悪意の有無は問わない(責任ある開示からブラックハットまで幅がある)。(4) **スワンプ(the swamp)** — 対人的な悪意による攻撃で、ハクティビズムから親密なパートナーによる虐待まで幅がある。暗号のような個別コンポーネントはあらゆる敵対者に耐えるよう設計できるが、複雑な実システム全体をあらゆる脅威から守ることは費用対効果の面で非現実的であるため、設計者はまず「自分の相手は誰か」を絞り込む必要がある、というのがこの類型論の実務的な出発点である。(Source: [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 2 Who Is the Opponent?]] §2.1, §2.6) 4類型は互いに排他的ではなく、しばしば手法を共有する。国家は犯罪者由来のマルウェア(Russian crimeware)を流用し、犯罪者は国家が開発した攻撃ツール(EternalBlue)を転用する。スピアフィッシングは国家の標的型攻撃(中国のチベット亡命政権侵入)にも、犯罪の請負サービス(標的1件750ドルのハックフォーハイア)にも共通して使われる汎用の技法である。また、大量監視(国家)・地下市場での分業(犯罪)・ネットいじめの組織化(brigading)はいずれも「攻撃のスケーリング(attack scaling)」という共通の経済構造——初期投資は大きいが対象追加の限界費用が低い——を持つ。(Source: [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 2 Who Is the Opponent?]] §2.2.1.12, §2.3.1, §2.5.1, §2.6) ## 横断的知見 - **国家主体(スパイ類型)は同一の類型でありながら、電子戦・情報戦という具体的作戦領域では戦略が大きく分岐する**: 第2章の類型論は「スパイ」を国家による諜報・攻勢的サイバー作戦とひとまとめに扱うが、第23章はこれを具体的な3つの戦略パターンに分解する——ロシアは選挙介入(2016年Brexit・米大統領選)・インフラへの妨害的サイバー攻撃(2015年ウクライナ変電所攻撃)・ハイブリッド戦(2014年クリミア併合)を積極的に用いる攻勢型、中国は他国への攻撃より自国の情報遮断(グレートファイアウォール)と経済・技術・諜報能力の構築を優先する防御型、北朝鮮はEMPの脅し(「いつでもお前の国の経済を止められる」というメッセージ)のような孤立国ならではの威嚇戦略をとる。同じ「スパイ」類型に属する国家主体が、能力・国際的な相互依存度・体制の性質に応じて全く異なる攻撃ドクトリンを持つことを、第23章は具体的な事例で裏付ける。(Source: [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 2 Who Is the Opponent?]], [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 23 Electronic and Information Warfare]] ch.23 §23.7, §23.8.2, §23.8.3) - **「攻撃のスケーリング」という第2章の経済構造は、情報戦における偽情報キャンペーンにも当てはまる**: 第2章はスパイ・犯罪者・スワンプに共通する「初期投資は大きいが対象追加の限界費用が低い」という構造を指摘したが、第23章が描くロシアの偽情報キャンペーン(トロールファーム・ボット・複数の陰謀論の並行流布)も同型の経済構造を持つ——一度確立した偽情報インフラは、標的とする選挙・論争ごとに低い限界費用で再利用できる。ただし第23章はこの経済性を明示的には論じておらず、本概念の枠組みを介した解釈にとどまる。(Source: [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 2 Who Is the Opponent?]], [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 23 Electronic and Information Warfare]] ch.23 §23.8.3) - **『Building Secure and Reliable Systems』第2章は、Andersonの動機による4類型(スパイ・犯罪者・geeks・スワンプ)を、動機・プロファイル・手法という3つの独立した軸に分解し、「複数動機の併存」という第2章の主張を具体的な起訴事例で裏づける**: 本概念の定義はAndersonの4類型が「互いに排他的ではなく、しばしば手法を共有する」と述べるにとどまるが、*BSRS* 第2章はまず fun・fame・activism・financial gain・coercion・manipulation・espionage・destruction という8つの動機を独立した軸として挙げたうえで、hobbyists・vulnerability researchers・governments and law enforcement・activists・criminal actors・automation and AI・insidersという7つの「プロファイル」(誰が攻撃するか)を動機とは別の軸として与える。さらに2018年に米司法省が起訴した北朝鮮のPark Jin Hyokの事例——WannaCryランサムウェア(金銭)・Sony Pictures侵害(強要)・電力インフラ侵害(諜報/破壊)に単独で関与したとされる——は、Andersonの類型論が抽象的に指摘する「単一の攻撃者が複数の動機・類型を併せ持つ」という主張を、実名の起訴事例という形で具体的に裏づける数少ない一次資料である。(Source: [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 2 Who Is the Opponent?]] §2.6, [[@2020__OReilly__Building Secure and Reliable Systems - Chapter 2 Understanding Adversaries]] ch.2 §Attacker Motivations) - **『Building Secure and Reliable Systems』第2章が独立に立てる「automation and artificial intelligence」というプロファイルは、Andersonの4類型(いずれも人間の動機を前提とする分類)の適用範囲そのものの限界を示す**: 本概念のAndersonの類型論(スパイ・犯罪者・geeks・スワンプ)は「敵対者は第一に人間である」という前提に立ち、4類型すべてが人間の動機・利害から出発する。*BSRS* 第2章は2015年のDARPA Cyber Grand Challenge(人間の介在なしに脆弱性を発見・悪用・修正する自律型システムの開発競技)を挙げ、将来の攻撃の一部が人間の直接操作を介さずに実行されうると指摘する。これはAndersonの4類型のどれにも収まらない第5の軸であり、「動機による分類」という本概念の枠組み自体が、動機を持たない(あるいは動機が設計者に間接的にしか帰属しない)自律的攻撃システムをどう扱うべきかという、両ソースとも明示的には答えていない課題を残す。(Source: [[@2020__OReilly__Building Secure and Reliable Systems - Chapter 2 Understanding Adversaries]] ch.2 §Automation and Artificial Intelligence, [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 2 Who Is the Opponent?]] §2.1) ## 未解決の問い - 本章は「アトリビューションは一般に信じられているほど困難ではない」と主張するが(§2.2.5)、この主張の一般性はどの程度検証されているか。Climategate のような事例では実際に主体を確定できなかったことも示されており、アトリビューションの困難さが敵対者の類型(国家 vs 犯罪者)によってどう変わるかは本章内では体系的に論じられていない。 - 4類型(スパイ・犯罪者・geeks・スワンプ)は動機による分類だが、同一の攻撃者が複数の動機を併せ持つ場合(たとえば国家が犯罪者を隠れ蓑に使う、あるいは犯罪者が国家の暗黙の許可のもとで活動する司法管轄——本章がロシアについて示唆する構図)を、この類型論はどう扱うべきか。 - 「攻撃のスケーリング」という共通構造が国家・犯罪・スワンプの3領域に共通することを本章は指摘するが、この経済構造(固定費対限界費用)に基づいて防御側の対抗戦略を統一的に設計する枠組みは、本章では示されていない。 ## 関連 - 章: [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 2 Who Is the Opponent?]] / [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 23 Electronic and Information Warfare]](国家主体=スパイ類型の戦略的差異を電子戦・情報戦の文脈で裏付け) / [[@2020__OReilly__Building Secure and Reliable Systems - Chapter 2 Understanding Adversaries]](動機・プロファイル・手法の3軸分解と複数動機併存の具体事例) - 概念: [[サイバー犯罪の産業化と分業]] — 犯罪者類型の内部構造を掘り下げる関連概念 / [[ソーシャルエンジニアリングとフィッシング]] — 攻撃者が共有する手法の心理学的基盤 / [[情報戦]] — 国家主体の情報戦ドクトリンの詳細 / [[内部者リスク]] — BSRS第2章が独立の脅威圏として扱う内部者(Andersonの4類型には明示的に対応物がない) - 実体: [[Edward Snowden]] / [[NSA]] / [[GCHQ]] ## 出典 - Ross Anderson, *Security Engineering: A Guide to Building Dependable Distributed Systems*, 3rd Edition, John Wiley & Sons, 2020, Chapter 2, §2.1–§2.6. - Ross Anderson, *Security Engineering: A Guide to Building Dependable Distributed Systems*, 3rd Edition, John Wiley & Sons, 2020, Chapter 23, §23.7, §23.8.2, §23.8.3. - Heather Adkins et al. (eds.), *Building Secure and Reliable Systems*, O'Reilly Media, 2020, Chapter 2.