# 情報経済学 (Information Economics)
## 定義
情報経済学とは、情報財・情報サービスの市場が伝統的な製造業の市場と異なる振る舞いを示す理由を扱うミクロ経済学の一分野である。情報財市場が独占的になりやすい理由として次の4つが挙げられる。(1) 限界費用がほぼゼロであること(競争均衡では価格が限界費用に近づくため、多くのオンラインサービスが無料化し広告等の別収益源に頼る)。(2) ネットワーク外部性(ネットワークの価値が利用者数に対して線形以上に増大し、一定の閾値を超えると正のフィードバックで一気に主流化する。二面市場(two-sided market)ではこの効果がさらに強まる)。(3) 供給側の規模の経済(先行企業が大量のユーザーデータやA/Bテストの蓄積によって優位性を確立・防衛できる)。(4) 相互運用性に起因するロックイン(あるプラットフォームに一度コミットすると、技術的コストだけでなく人材の再訓練コストのために離脱が高くつく)。これら4要因は単独でも支配的企業を生みうるが、組み合わさるとさらに強く作用する。Carl ShapiroとHal Varianによれば、ソフトウェア企業の価値は顧客全員が抱える(技術的+ネットワーク的な)ロックインの総和に等しい。(Source: [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 8 Economics]] §8.3.1, §8.3.2)
情報経済学はまた、非対称情報(asymmetric information)による市場の失敗も扱う。逆選択(adverse selection、隠れた情報)は George Akerlof の「レモン市場」論文(1970)に由来し、売り手と買い手の情報の非対称性により低品質な財が市場を支配してしまう現象を指す。モラルハザード(moral hazard、隠れた行動)は、リスクから保護されていると認識した主体がリスクを取る行動を増やす現象である。さらに公共財(public goods)——非競合的(non-rivalrous)かつ非排除的(non-excludable)な財——は、協調されない市場では社会的最適量を供給できない。(Source: [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 8 Economics]] §8.3.3, §8.3.4)
## 横断的知見
- **逆選択(レモン市場)の枠組みは、本章が例示する製品市場だけでなく、ソフトウェアの難読化・耐タンパ性という「保護の強度そのものを事前に判別できない」領域にも一般化できることを第24章が示す**: 本章(第8章)はAkerlofのレモン市場論を非対称情報の一般原理として導入するが、第24章はDRMの鍵管理を守るRASP(runtime application self-protection)の頑健性評価について、「テスターが2週間鍵を抽出できなくても、1か月かけて挑む攻撃者への保証にはならない」ため「lemons market is therefore to be expected(レモン市場が生まれるのは必然だ)」と明言する。これは、本章が扱う「財の品質を買い手が事前に判別できない」という古典的な逆選択の構造が、消費財市場だけでなく「セキュリティ機構の強度」という無形の属性の評価にも及ぶことを示す独立した事例であり、[[耐タンパ性]]概念が指摘するFIPS/Common Criteria評価の非対称情報問題とも符合する。(Source: [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 8 Economics]] ch.8 §8.3.3, [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 24 Copyright and DRM]] ch.24 §24.3.3)
- **本章のロックイン理論は、第24章のアクセサリ制御という直接的な物理的ロックインの実例で具体化される**: 本章はソフトウェア企業の価値を顧客のロックインの総和とするShapiro & Varianの一般原則を提示するが、これは主にデータ・スキル・相互運用性という間接的なロックインを想定している。第24章はこれに対し、プリンタのインクカートリッジやトラクターの部品のように、暗号認証チップで意図的に互換品を拒否するという、より直接的なロックインの実装(アクセサリ制御)を示す。詳細は[[アクセサリ制御]]を参照。(Source: [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 8 Economics]] ch.8 §8.3.1, [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 24 Copyright and DRM]] ch.24 §24.6)
- **第25章の「AIスネークオイル」は、レモン市場(逆選択)の枠組みが情報技術一般の誇大広告(hype)に適用できるさらに別の事例である**: 第25章は、AI/ML市場に「マーケティングの方が製品より強い」何千ものスタートアップが参入し、ある VC 企業の推計では「AI」を名乗るスタートアップの40%は実質的にMLを使っていないと報告する。買い手(投資家・雇用主・行政)は、統計的に一世紀前の手法を「AI」と呼び換えただけの製品と、実際に知覚タスクで人間並みの精度を達成した製品(顔認識・音声認識等)を、購入前に判別できない。これは本章がDRMの保護強度評価について指摘した「lemons market is therefore to be expected」(第24章、既出)と全く同型の非対称情報構造であり、対象が「セキュリティ機構の強度」から「AI/MLというラベルそのものの真正性」へとさらに一般化されたことを示す。(Source: [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 25 New Directions?]] ch.25 §25.3.3, [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 24 Copyright and DRM]] ch.24 §24.3.3)
- **第25章の暗号電話(crypto phone)市場は、本章のネットワーク外部性の議論を「秘匿性を競う闇市場」という新しい文脈で確認する**: 本章はネットワークの価値が利用者数に応じて非線形に増大し、閾値を超えると正のフィードバックで主流化すると説明するが(定義節参照)、第25章はこれを裏返しの形で確認する——Ennetcom・PGP Safe・Phantom Secure・EncroChatといった暗号電話サービスは、ネットワーク効果によって利用者が増えるほど便利になり主流化するが、その同じネットワーク効果が「利用者の集積」を可視化し、当局の摘発対象として目立たせてしまう。正のフィードバックで拡大したネットワークが、その拡大ゆえに破壊されるという「ネットワーク外部性が裏目に出る」具体的なメカニズムを提示しており、本章が未解決の問いとして残していた「ネットワーク外部性が負に働く場合」の一事例を、秘匿性市場という特殊な文脈で埋める。(Source: [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 25 New Directions?]] ch.25 §25.4.1)
- **第28章のTrust-e事例(Ben Edelmanの研究)は、逆選択(レモン市場)の枠組みが「製品の品質評価」から「第三者認証制度そのもの」へ一般化できることを示す、本章のRASP評価(第24章)・AIラベル(第25章)に続く4番目の実例である**: 本章は既にDRMの保護強度評価(第24章)とAI/MLラベルの真正性(第25章)という2つのレモン市場の一般化事例を横断的知見として蓄積してきたが、第28章§28.2.8は、ウェブサイト認証スキームTrust-eについて、認証済みサイトのほうが未認証サイトよりもマルウェアを仕込もうとする可能性が高いというBen Edelmanの研究結果を報告する。認証が任意かつ安価だったため、弱いベンダーほど認証を取得し優良な消費者ブランドは取得しなかったという、教科書的な逆選択である。これにより「買い手が品質を事前に判別できない対象」は、DRMの保護強度・AIラベル・第三者認証(サイトの安全性証明そのもの)という3つの独立した領域で繰り返し観察されたことになり、レモン市場の枠組みが「製品」だけでなく「認証・評価制度という制度そのもの」に頑健に一般化できることを裏づける。ただし対象はいずれもセキュリティに関連する評価であり、本ページが未解決の問いとして残す「セキュリティ以外の無形サービス(コンサルティング等)への一般化」までは、この事例も答えていない。(Source: [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 28 Assurance and Sustainability]] ch.28 §28.2.8, [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 24 Copyright and DRM]] ch.24 §24.3.3)
## 未解決の問い
- 非対称情報(逆選択・モラルハザード)の枠組みは、セキュリティ製品市場(アンチウイルスソフトの価格競争の例など)以外にどのような場面へ応用できるか。本章は簡潔な例のみを扱う。
- ネットワーク外部性・技術的ロックインが「負」に働く場合(Myspaceの衰退のような負のフィードバック)について、正の場合と対称的な理論的取り扱いがあるか。
- レモン市場の枠組みが「製品」だけでなく「保護機構の評価そのもの」に一般化できるなら、この一般化はセキュリティ以外の無形サービス(コンサルティング、監査全般)にどこまで及ぶか。本書はセキュリティ領域の事例しか扱っていない。
- 第25章が示す「ネットワーク効果が可視性を通じて摘発を招く」という負のフィードバックは、暗号電話市場に限らず、正規の情報財市場(SNS等)にも同型で存在するか。本ページのソースは秘匿性市場の事例のみを扱う。
- AIスネークオイル(第25章)のようなレモン市場は、時間とともに(買い手が学習することで)自然に解消されるか、それとも継続的な情報非対称性ゆえに恒常的に存在し続けるか。本書はどちらの見立ても明示していない。
## 関連
- 概念: [[セキュリティ経済学]] — 本概念の枠組みをセキュリティ問題に応用する分野 / [[アクセサリ制御]] — ロックイン理論の具体的なハードウェア実装 / [[耐タンパ性]] — レモン市場化する評価制度の別の実例 / [[運用セキュリティ(OPSEC)とトレードクラフト]] — ネットワーク効果が裏目に出る暗号電話市場の実務的側面 / [[セキュリティ評価制度]] — 第三者認証(Trust-e・Common Criteria)のレモン市場化を扱う
- source: [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 8 Economics]] — 情報経済学の解説とセキュリティへの応用を扱う一次資料 / [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 24 Copyright and DRM]] — レモン市場・ロックインの具体的な事例を扱う / [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 25 New Directions?]] — AIスネークオイル(レモン市場)と暗号電話市場(ネットワーク外部性の裏目)の事例を扱う / [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 28 Assurance and Sustainability]] — Trust-eの逆選択事例を扱う
## 出典
- Ross Anderson, *Security Engineering: A Guide to Building Dependable Distributed Systems*, 3rd Edition, John Wiley & Sons, 2020, Chapter 8 (§8.3.1-§8.3.4).
- Ross Anderson, *Security Engineering: A Guide to Building Dependable Distributed Systems*, 3rd Edition, John Wiley & Sons, 2020, Chapter 24 (§24.3.3, §24.6).
- Ross Anderson, *Security Engineering: A Guide to Building Dependable Distributed Systems*, 3rd Edition, John Wiley & Sons, 2020, Chapter 25 (§25.3.3, §25.4.1).
- Ross Anderson, *Security Engineering: A Guide to Building Dependable Distributed Systems*, 3rd Edition, John Wiley & Sons, 2020, Chapter 28 (§28.2.8).
- 原注: Carl Shapiro and Hal Varian, *Information Rules*, Harvard Business School Press, 1998(本章の情報経済学解説の主要な参照元)。George Akerlof, "The Market for 'Lemons': Quality Uncertainty and the Market Mechanism," *Quarterly Journal of Economics*, 1970(逆選択の起源論文)。