# 可逆性と不可逆性
## 定義
可逆性(reversibility)と不可逆性(irreversibility)は、ある系の時間発展を記述する際に要求される時間概念が、対象とする系の性質——とりわけ系を構成する粒子(自由度)の数と結合の疎密——によって根本的に異なることを指す。[[ノーバート・ウィーナー]]は『サイバネティクス』第1章で、天文学(とくに太陽系)とニュートン力学を可逆な時間の代表例、気象学と熱力学・生物学を不可逆な時間の代表例として対比し、この差を「関与する粒子数の桁違いの多さ」に帰した。ニュートン力学の基本法則は時間変数 t をその負号に置き換えても不変であり(可逆)、太陽系の運動を撮影したフィルムを逆回ししても物理法則に反しない一方、積乱雲の乱流を逆回しすれば直ちに不自然に見える。哲学者 Bergson はこの区別を、「何も新しいことが起こらない」物理学の可逆な時間と、「常に何か新しいことが起こる」進化・生物学の不可逆な時間として定式化した。ウィーナーはこの対比を現代のオートマトン(通信工学的に捉え直された自動機械)にまで拡張し、現代の自動機械も生体と同じベルクソン的な不可逆な時間の中に存在すると論じる。(Source: [[@1961__MITPress__Cybernetics - Chapter 1 Newtonian and Bergsonian Time]] ch.1 p.30-33, p.38, p.44)
## 横断的知見
- ウィーナーは1948/1961年の時点で、太陽系を粒子数が少なく結合が疎であるがゆえに「詳細にではないが原理的には容易かつ精密」に運動計算できる、可逆なニュートン系の原型として位置づけた(ch.1 p.32-33)。ところが [[The Sciences of the Artificial]] の Herbert A. Simon による第7章([[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 7 Alternative Views of Complexity]])は、1970年代後半以降の計算機による発見を踏まえ、「Newton 以降、天文学者は2体系の運動を計算できたが、3体以上では近似しか得られず、太陽系を含む3体以上の重力系は一般にカオス的だと信じるだけの理由がいまではある」と述べる。同じ太陽系が、20世紀前半の文献では可逆で予測可能なニュートン系の原型として引かれ、20世紀後半の文献ではカオスの実例として引かれている。両者の主張の射程は異なり(ウィーナーは短中期の運動計算の実務的容易さ、Simon は長期の初期値鋭敏性)厳密な矛盾ではないが、可逆性・不可逆性(あるいは予測可能性)の境界線が対象の性質だけでなく観測される時間スケールにも依存することを、この2つのソースの突き合わせは示している。(Source: [[@1961__MITPress__Cybernetics - Chapter 1 Newtonian and Bergsonian Time]] ch.1 p.32-33, [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 7 Alternative Views of Complexity]] ch.7 p.179)
- 『サイバネティクス』第1章と第2章を突き合わせると、不可逆性の説明が補完関係にあることが見える。第1章は不可逆性を「粒子数の桁違いの多さ」という定性的な理由に帰すにとどまるが、第2章([[エルゴード理論]])は Gibbs のアンサンブルとエルゴード定理を用いて、系の位相平均と時間平均が一致するという形でこの直観に統計力学的な基礎を与え、さらにエントロピーを位相空間内の領域の確率測度の対数として定義したうえで、酵素や生物を「準安定」状態(脱調・死という安定状態への移行に時間を要する活動状態)として位置づける。すなわち第1章の「気象学は不可逆に見える」という現象論的な観察は、第2章のエントロピー増大・準安定という統計力学的機構によって裏づけられている。(Source: [[@1961__MITPress__Cybernetics - Chapter 1 Newtonian and Bergsonian Time]] ch.1 p.32-33, [[@1961__MITPress__Cybernetics - Chapter 2 Groups and Statistical Mechanics]] ch.2 p.56-59)
## 未解決の問い
- 太陽系がカオス的でありうるという後年の知見を踏まえると、ウィーナーが「可逆性の代表例」として太陽系を選んだ論証はどこまで生き残るか。短中期の運動計算の精度と長期のカオス性は両立するという整理でよいか、それとも第1章の議論自体が近似の射程を見誤っているのか。
- 気象学がなぜ「粒子数が多い」というだけで不可逆になるのかという第1章の説明は定性的である。エルゴード理論・統計力学(第2章)の枠組みで、この直観をどこまで定量的に基礎づけられるか。
- ウィーナーはベルクソンの不可逆な時間を現代のオートマトンにまで拡張したが、「ベルクソンの考察には反対する理由がない」と述べるにとどまり、ベルクソン自身のテキストへの参照は示していない。この拡張はベルクソン本来の議論とどこまで整合するか。
## 関連
- 概念: [[決定論的カオス]] / [[エルゴード理論]]
- 実体: [[ノーバート・ウィーナー]] / [[Willard Gibbs]]
- ソース: [[@1961__MITPress__Cybernetics - Chapter 1 Newtonian and Bergsonian Time]] / [[@1961__MITPress__Cybernetics - Chapter 2 Groups and Statistical Mechanics]] / [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 7 Alternative Views of Complexity]]
## 出典
- Norbert Wiener, *Cybernetics: or Control and Communication in the Animal and the Machine*, 2nd ed., The MIT Press, 1961, Chapter 1 "Newtonian and Bergsonian Time", pp. 30-44.
- Herbert A. Simon, *The Sciences of the Artificial*, third edition, The MIT Press, 1996, Chapter 7 "Alternative Views of Complexity", pp. 175-179.