# 創発と還元主義
## 定義
**還元主義(reductionism)**とは、系の性質をその構成要素の性質と要素間の関係によって説明しうるとする立場である。これに対し**全体論(holism)**は、自然物を部分に完全には還元されない全体と見なし、部分の総和以上であって部分を機械的に寄せ集めても生み出せないと主張する。語は南アフリカの政治家・哲学者 J. C. Smuts に由来する。**創発(emergence)**は、この対立の焦点に置かれる概念であり、構成要素には場所を持たない新しい系の性質と関係が生じることを指す。(Source: [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 7 Alternative Views of Complexity]] ch.7 "Holism and Reductionism" p.170)
Herbert A. Simon は全体論に強弱の解釈を区別する。**強い解釈**は「部分を寄せ集めても全体を生み出せず、その性格と振る舞いを説明できない」と主張し、生物系に適用すれば現代分子生物学と全面的に相容れない生気論に至る。心に適用すれば「機械は思考しえない」「思考はニューロンの配置と振る舞い以上のものを含む」という双方の主張を支える。複雑システム一般に適用すれば、創発の機械論的説明を拒む「創造的」原理を呼び込む。(Source: 同 ch.7 p.170)
**弱い解釈**の創発は、複雑システムの部分が孤立した部分としては存在しない相互関係を持つ、という以上のことを主張しない。重力の引力は 2 つ以上の物体が相互作用するときにしか存在せず、連星の相対的な重力加速度については学べても孤立した星についてはそうではない。この弱い形の創発は、最も熱心な還元主義者にとっても何ら問題を生じない。(Source: 同 ch.7 pp.170-171)
## 弱い創発の実例
- **酵素の鋳型**: 個々のタンパク質の構造だけを研究しても、酵素として働く 1 つのタンパク質分子が他の 2 分子を挿し込み、両者が結合する反応の間そこに保持する鋳型を提供する仕方は予見できない。鋳型は酵素の実在の物理的性質でありながら、一定の種類の他分子からなる環境に置かれるまで機能を持たない。鋳型の機能は「創発的」で孤立した酵素分子については意味を持たないが、結合過程とそこで働く力は、関与する分子の既知の物理化学的性質によって完全に還元主義的に説明できる。(Source: 同 ch.7 p.171)
- **理論的用語**: 複雑システムの記述では、力学の慣性質量や回路理論の電圧のように、直接観測できず観測量の間の関係によって定義される新しい理論的用語を導入することがしばしば便利である。Ohm は電池をブラックボックスのまま扱い、導線の長さ(抵抗)と電流計が示す力(電流)を関係づける式に現れる 2 つの定数を電圧と内部抵抗と名づけた。両者は直接測られず、Ohm の法則を介して推論される。こうした用語によって、構成サブシステムの詳細に触れず集約的性質だけを参照できる。(Source: 同 ch.7 p.171)
## 原理的還元主義という立場
Simon は弱い解釈の創発を採ることで、**原理的には還元主義に与する**と明言する。全体の性質を部分の性質の知識から厳密に導くことが容易でなくとも、しばしば計算量的にすら実行不能であっても、この実用的なやり方によって複雑性の各水準ごとにほぼ独立な理論を築き、同時に各上位水準を 1 つ下の水準の要素と関係で説明する**橋渡し理論(bridging theories)**を築くことができる。(Source: 同 ch.7 pp.171-172)
ただし Simon は、素粒子から原子・分子・細胞・器官・生物へと積み上げるのが科学の通常の構想だとしつつ、実際の歴史はしばしば逆に上から下へ展開したと付言する。第 1 章で述べたとおり、我々は科学理論をしばしばスカイフックから吊り下げる。(Source: 同 ch.7 p.172)
なお 20 世紀の 3 度の複雑性論の噴出は、還元主義に対する態度で分かれる。第一次大戦後の全体論は強い反還元主義の色合いを帯び、第二次大戦後のサイバネティクスの波はむしろ中立で、現在の波は複雑性を生み出し維持する機構と解析道具に関心を移している。ただし第二の波は、複雑システムを「全体として」研究することと系の性質を機構によって還元的に説明することを同時に促し、全体論をかつてない仕方で還元主義と対峙させた。その対峙は今日も人工システムをめぐる哲学的議論のなかで続いている。(Source: 同 ch.7 pp.169-170, p.173)
## 横断的知見
- Simon が第 7 章で採る「弱い創発なら原理的還元主義と両立する」という立場は、第 8 章の準分解可能性の定理によって**構造的な裏づけ**を与えられていると読める。第 7 章は「構成要素の詳細を無視して集約的性質だけを参照する理論的用語」を弱い創発の処理法として提示するが、それがなぜ有効なのかは第 7 章では説明されない。第 8 章はその条件を明示する。すなわち系が準分解可能であれば、異なるサブシステムに属する下位部分は集約的にしか相互作用しないため、詳細を無視できる。第 7 章の「各水準にほぼ独立な理論 + 橋渡し理論」という方法論的処方は、第 8 章の「短期にはサブシステムがほぼ独立、長期には集約量にのみ依存」という 2 命題の言い換えにあたる。(Source: [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 7 Alternative Views of Complexity]], [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 8 The Architecture of Complexity - Hierarchic Systems]])
- **「創発」という同じ語が、還元主義を守るためにも捨てるためにも使われる**。Simon は創発を弱く解釈することで還元主義を保持し、還元的説明が計算量的に実行不能でありうることを認めながら、それを立場の変更理由とはしない。これに対し [[@2025__IOTS2025__SREはサイバネティクスの夢をみるか]] は、サイバネティクスの創発概念を根拠に SRE の工学的着想を「要素還元から創発性へ」転換すべきだと論じ、「Black box as a Black box」で全体を扱う方針を提示する。両者が分かれるのは創発の定義ではなく、**還元的説明の実行不能性を実務上どう扱うか**である。Simon は原理と実行可能性を分離して原理の側に立ち、坪内は実務の側に立って原理を退ける。(Source: [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 7 Alternative Views of Complexity]], [[@2025__IOTS2025__SREはサイバネティクスの夢をみるか]])
- サイバネティクスの位置づけも両者で食い違う。Simon は戦後第二の波(サイバネティクス)を「還元主義の問題についてはむしろ中立」と評し、その主要な貢献は一般システム理論という広い構想ではなくフィードバック・ホメオスタシス・選択的情報という具体的概念にあったとする。一方 [[wiki/concepts/サイバネティクス|サイバネティクス]]に集まる現代のソース群は、サイバネティクスを要素還元を超える「ループの理論」ないし創発の理論として継承している。Simon が「メタファーと類比は助けにもなれば誤導にもなり、すべては捉える類似が本質的か表層的かにかかる」と一般システム理論に向けた警告は、この継承にもそのまま向けうる。(Source: [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 7 Alternative Views of Complexity]], [[@2025__IOTS2025__SREはサイバネティクスの夢をみるか]])
## 未解決の問い
- 還元的説明が「原理的には可能だが計算量的に実行不能」であるとき、それは還元主義の擁護になるのか、それとも実質的な反証になるのか。Simon は前者の立場を取るが、その線引きの根拠を第 7 章では与えていない。
- Simon が「複雑システム一般に適用された強い全体論は創発という創造的原理を要請する」と述べるとき、現代の複雑系科学が語る創発は強弱どちらに属するのか。第 7 章は現在の波(カオス・遺伝的アルゴリズム・セル・オートマトン)を検討するが、それらが要請する創発の強さを分類していない。
- 「各水準にほぼ独立な理論 + 橋渡し理論」という処方は、水準の切り方が与えられていることを前提する。水準そのものをどう同定するかは第 7 章では扱われない。
- ソフトウェアシステムの運用において、還元的な原因追跡(障害箇所特定)と創発を前提にした全体的な観測は、どの条件で使い分けるべきか。
## 関連
- 概念: [[階層的複雑性]] / [[準分解可能システム]] / [[決定論的カオス]] / [[サイバネティクス]] / [[複雑システム障害論]]
- 実体: [[Herbert A. Simon]] / [[ノーバート・ウィーナー]] / [[The Sciences of the Artificial]]
- ソース: [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 7 Alternative Views of Complexity]] / [[@1996__MITPress__The Sciences of the Artificial - Chapter 8 The Architecture of Complexity - Hierarchic Systems]]
## 出典
- Herbert A. Simon, *The Sciences of the Artificial*, third edition, The MIT Press, 1996, Chapter 7 "Alternative Views of Complexity", pp. 169-174.
- 本章が全体論の定義として引くのは J. C. Smuts, "Holism," *Encyclopaedia Britannica*, 14th ed., vol. 11 (1929), p. 640 である。
- 理論的用語の扱いについて本章が参照するのは H. A. Simon, "The Axiomatization of Physical Theories," *Philosophy of Science*, 37(1970): 16-26 である。