# 人的要因 (Human Factors)
## 定義
人的要因(Human Factors)は、人間の能力・限界・行動パターンと、それが関わるシステム・環境・組織との相互作用を研究する学問領域である。工学・心理学・認知科学・生理学・組織論を横断し、安全性・効率・快適性の向上を目指す。インシデント分析・ポストモーテム・システム設計に適用した場合、「なぜ人間はそのような判断をしたのか」を問う出発点となる。
Tanner Lund は SREcon19 APAC で「Human Factors に触発されたアプローチ、特にレジリエンスエンジニアリングの流儀による」と明記し、SRE のインシデント対応における人間の役割を再評価した([[@2019__SREcon19 Asia__A Tale of Two Postmortems - A Human Factors View]] p.27)。
## 横断的知見
- **「ヒューマンエラー」は分析の行き止まりである**: Lund は「Human Error」という結論を「analytical dead end」と明示する。人間をエラーの原因として特定した瞬間に分析が止まり、「なぜその文脈でその判断が合理的に見えたか」という問いが省かれる。これは Sidney Dekker の New View(人間を機能不全でなくシステムの適応的要素と見る)と整合する([[@2019__SREcon19 Asia__A Tale of Two Postmortems - A Human Factors View]])。また Will Gallego の「ローカル合理性」概念(「人は当時の情報において最善と信じる行動をとる」)とも対応する([[ポストモーテム]])。
- **規範的言語が後知恵バイアスを固定化する**: 「すべき/すべきでなかった」という規範的言語(Normative Language)はポストモーテム文書に後知恵バイアス(Hindsight Bias)と非難(Blame)を組み込む。Human Factors 視点では、事後から見れば「明らかな失敗」も当時の知識・プレッシャー・文脈では合理的選択だった可能性が高い([[@2019__SREcon19 Asia__A Tale of Two Postmortems - A Human Factors View]])。
- **複雑システムでは人間の適応性が安全の源泉でもある**: 機械論的推論(Mechanistic Reasoning)——「人間を除けばエラーが減る」——への批判は、人間が単なるエラー源でなくシステムの頑健性を支える[[レジリエンスエンジニアリング|Resilience Engineering]]の中核テーゼと重なる。[[自動化の皮肉]]も同様に、自動化の拡大が人間の状況認識を低下させる逆説を指摘する([[@2019__SREcon19 Asia__A Tale of Two Postmortems - A Human Factors View]] p.9)。
- **Miller's Law が「ヒューマンエラー調査」の哲学的基盤を提供する**: Eckhardt([[@2019__SREcon19 Asia__Retrospectives for Humans (a crash course)]])は Miller's Law——「相手の言葉を理解するには、それが真だと仮定してどういう状況なら真になるかを想像しなければならない」——をポストモーテムでの会話の中核原則に据えた。この原則は Lund の「Human Factors に触発されたアプローチ」と Gallego の「ローカル合理性」の共通の認識論的根拠でもある。「自分の直接経験の外にある発言を理解するには、相手の当時の文脈を仮定的に再構築するしかない」という命題は、Human Factors がなぜ個人ではなく文脈に注目するかの根拠を言語哲学から提示する。(Source: [[@2019__SREcon19 Asia__Retrospectives for Humans (a crash course)]] p.18 / transcript)
- **「ヒューマンエラー」は分析の行き止まりであることが実務家からも収束確認される**: Eckhardt は SREcon19 Asia/Pacific で「ヒューマンエラーは調査を終わらせる場所でなく、始める場所だ」とした(John Allspaw 経由、Sidney Dekker・David Woods 参照)。この主張は Lund([[@2019__SREcon19 Asia__A Tale of Two Postmortems - A Human Factors View]])の「analytical dead end」、Gallego([[@2018__SREcon18 Americas__Architecting a Technical Post Mortem]])の「ローカル合理性」と並ぶ三者独立の収束であり、Human Factors 学術系と SRE 実務家系の両方からの合流が確認できる。具体的な次の問い: 「その人間はどうエラーを起こしたか」「エラーが起きやすかった条件は何か」「エラーがシステムを落とした経路は何か」「人間がエラーに気づくのにどれだけかかったか」([[@2019__SREcon19 Asia__Retrospectives for Humans (a crash course)]] p.26)。
- **Lake Washington 浮橋沈没(1990)事例が示す「人的要因調査の不完全性」**: Eckhardt と Neva は SREcon19 Americas で、Lake Washington 橋沈没の公式調査が5つの物理的要因(水圧破砕工事・水蓄積・トラック荷重・橋脚亀裂・連鎖沈降)を列挙しつつ、「ポンプスケジュール管理ができなかった作業員の状況」を調査しなかったか文書化しなかった点を「ほぼ良い振り返りだが不完全」と評した([[@2019__SREcon19Americas__Running Excellent Retrospectives - Talking for Humans]] p.25-30)。これは「物理的因果連鎖を完全に記述しても人的文脈を欠けば振り返りは不完全」という命題の具体例である。公式の工学的調査が人的要因を落とす構造的傾向と、それがなぜ再発防止に不十分かを示す好事例。
- **機械論的推論(Mechanistic Reasoning)はポストモーテムの根本的誤謬**: [[Tom Partington]] は [[ANZx]] の実践報告([[@2022__SREcon22APAC__A Post Incident Review Review]] p.16)でこの用語を明示し、「システムを相互関係のない部品の集合と見なす信念」と定義した。機械論的推論のもとでは、ひとつの部品(人間・コード・設定)を修正すれば問題が解決すると仮定するが、Complex Adaptive Socio-technical Systems——創発的特性と帰還ループを持ち、人間と機械で構成されて仕事をする——という現実の複雑さを説明できない。これは Dekker の「原因は構築される」・Lund の「Human Error は分析の行き止まり」と同一の批判を、組織実践(PIR 設計)から記述した点で補完的である。
- **Dekker's Tunnel は「なぜその人が悪かったのか」から「どの文脈でその判断が合理的だったか」への問い転換を可視化する**: Partington は Dekker's Tunnel([[@2022__SREcon22APAC__A Post Incident Review Review]] p.18)を PIR ファシリテーションの哲学的根拠として提示した。入口から分岐した経路が複数の出口(障害・成功)に至るトンネル構造は、「同じ人間が同じ状況に入っても出口は一つでない」ことを示し、ブレームの論理を崩す。[[ANZx]] が PIR でブレーム・アウェア(Blame-aware)デブリーフィングを採用する背景にはこの視覚的フレームがある。
- **インシデント対応中の人間のオブザーバビリティは技術的オブザーバビリティと並存する**: [[Matt Davis]] は [[@2023__SREcon23Americas__Human Observability of Incident Response]] において「人間のオブザーバビリティ」——参加者が互いの状態・意図・注意をどう把握し合うか——を技術的メトリクス・トレース・ログとは独立した観測対象として位置付けた。コンダクター質問(p.30)が疲労・食事・時刻・心理的安全を問うのはその実践形態。技術的オブザーバビリティが充実した組織でも人間のオブザーバビリティが欠如すると Common Grounding の崩壊リスクが上がるという命題は、他の Human Factors ソース(Lund・Eckhardt・Partington)の「文脈」重視と収束する。(Source: [[@2023__SREcon23Americas__Human Observability of Incident Response]])
- **インシデント対応の即興能力(Adaptive Capacity)は練習の外に存在しない**: Davis は Derek Bailey の「Improvisation has no existence outside of its practice」を引用し、インシデント対応の適応的能力は演習なしには育たないと主張した。これは Lund・Eckhardt らが「文脈の再構築」という認識論的提案にとどまったのに対し、Davis は**練習フレームワーク(Practice of Practice Gamelan)**として実践に落とした点で新しい。Human Factors の知見を「組織的な訓練設計」につなぐ橋渡しとして評価できる。(Source: [[@2023__SREcon23Americas__Human Observability of Incident Response]])
- **"Commanding the Chaos" は AI Ops 特有の Human Factors 実践フレームワーク**: [[Eddie Redick]] が SREcon26 Americas で提唱した "Commanding the Chaos" は、AI エージェントが自律的に動く環境下での SRE の人間側スキルセットを Psychological Composure(プレッシャー下での冷静)/ Systems Thinking(全体最適視点)/ Automation at Scale(スケールする自動化設計)の 3 軸で定義する。Lund・Eckhardt らが事故後の分析フレームワークとして Human Factors を語るのに対し、Redick は AI 主体の「リアルタイム運用」文脈での人間スキルとして展開する点が新しい。特に "You don't rise to the level of your architecture; you fall to the level of your systems thinking." という言及は、アーキテクチャの複雑性が増すほど人間の「システム全体を見渡す思考」の相対的価値が上がるという主張で、[[自動化の皮肉]](自動化が人間の状況認識を奪う)の処方箋として Systems Thinking トレーニングを位置づけている。この3軸の欠落を「個人の失敗」ではなく「訓練不足という組織的前提」として捉える視点は、Lund の「Human Error は分析の行き止まり」と同じ根拠から来ている。(Source: [[@2026__SREcon26Americas__Human Factors in the Age of AI Ops]])
- **Trust Triangle は AI 信頼の崩壊モードを特定する Human Factors ツールになる**: Redick は Frei & Morris の Trust Triangle(Logic / Empathy / Authenticity)を AI Ops 文脈に適用し、「いずれか 1 軸が崩壊すると信頼全体が失われる」と述べた。特に Authenticity の崩壊——AI が提示する推奨の根拠が不透明で独立した検証ができない——が、16% しか AI を完全信頼しないという現状の中心要因として示された。Human Factors が「人間はなぜその判断をしたか」を問うのに対し、Trust Triangle は「人間は AI のどの特性を評価してその判断を下すか」を問う枠組みであり、AI 時代の Human Factors の評価対象が「人間の認知」から「人間-機械界面の信頼構造」へと拡張することを示唆する。(Source: [[@2026__SREcon26Americas__Human Factors in the Age of AI Ops]])
- **ローカル合理性による疑いが歴史的規模の惨事を防いだ事例として、1979年 NORAD 誤警報がある**: [[@2023__SREcon23Americas__Epic Incidents of History - The 1979 NORAD Nuclear Near Miss]] では、核攻撃と誤認された誤警報に対し、現場のオペレーターが他データソース(レーダー)とのクロスチェックおよび表示時刻の不整合という「局所的文脈」への違和感を頼りに、与えられたデータをそのまま信じずに約6分で誤警報と判断した。これは Gallego のいう「人は当時の情報において最善と信じる行動をとる」というローカル合理性が、単に事後分析の解釈枠組みにとどまらず、危機の最中に「批判的に疑う」という能動的な適応行動として発揮された事例であり、[[複雑システム障害論]] の命題12(人間は複雑システムの適応的要素)を歴史的スケールで裏付ける。
- **生理学的ストレス管理は Human Factors の「身体的次元」として接続する**: [[Beth Adele Long]] は SREcon26 Americas で、オンコールの慢性・急性ストレスを ANS(自律神経系)の活性化として捉え、Body Scan・Breath・Movement・Boredom という身体的介入で ANS の自己修正を促す実践を提示した([[@2026__SREcon26Americas__The Critical Resource Is You - Practical Destressing for On-Call Engineers]])。Ordinary Mind(目標指向・合理的・言語的)による ANS の抑制というメカニズムは、Human Factors が強調する「合理的な事後分析だけでは人間のパフォーマンス問題を解決できない」という命題の生理学的対応物である。Davis の「インシデント対応中の人間のオブザーバビリティ」が認知・コミュニケーション面を扱うのに対し、Long の枠組みは身体・神経系面を扱う点で補完的。(Source: [[@2026__SREcon26Americas__The Critical Resource Is You - Practical Destressing for On-Call Engineers]])
- **一般向け SRE 教本が「人間は原因でなくシステムが原因を許した」と明言し、講演系譜の収束にさらに一つの合流点を加える**: [[wiki/entities/Anatomy of an Incident|Anatomy of an Incident]] 第 5 章は「人間がインシデントの原因になることは決してない。原因は、インシデントの発生を『許した』システムとプロセスである」と明示的に宣言する。これは本ページが集約する Lund の「Human Error は分析の行き止まり」・Eckhardt の「ヒューマンエラーは調査を終わらせる場所でなく始める場所」と同一の認識だが、SREcon の講演という専門家向け媒体でなく、書籍という一般 SRE 実務者向けの入門的媒体でこの命題が明文化されている点が異なる。本ページに集約された Human Factors 系の収束が、専門講演の外側でも組織の標準的な教育コンテンツとして流通していることを示す傍証になる。→ 心理的安全性の観点からの詳細は [[心理的安全性]] を参照。(Source: [[@2022__OReilly__Anatomy of an Incident - Chapter 5 Postmortems and Beyond]])
- **架空事例が「ローカル合理性」を非難文化の犠牲者の視点から裏付ける**: Gallego の「ローカル合理性(Local Rationality)」——人は当時の情報において最善と信じる行動をとる——は、これまで本ページでは登壇者による事後分析の原則として引用されてきた。『SREの探求』27章の架空の新入社員カレンは、専門書で読んだ低レベルロッキング最適化を検証しテスト環境で CPU 使用率 15% 削減という結果を確認したうえで本番環境へ変更をロールアウトしており、当時の情報においては合理的な判断だった。それでもディレクターに公の場で「無責任」と非難された経緯は、ローカル合理性の原則が守られなかった場合に個人が受ける具体的な代償(二度とイノベーションを試みなくなる、最終的な離職)を、分析者の視点でなく当事者の視点から描く。既存ソースが「振り返りでこの原則を適用すべきだ」と規範的に説くのに対し、27章は「適用されなかった場合に何が起きるか」を物語として補完する。(Source: [[@2019__SREcon19 Asia__A Tale of Two Postmortems - A Human Factors View]], [[@2018__SREcon18 Americas__Architecting a Technical Post Mortem]], [[@2021__OReillyJapan__SREの探求 - Chapter 27 SREにおける心理的安全性]] §27.1)
- **認知的過負荷(cognitive overload)は運用チームの人的要因を論じる新しい軸として27章から加わる**: 既存ソースは「文脈の再構築」「ヒューマンエラーは分析の行き止まり」など、主にインシデント発生後の分析姿勢に焦点を当てる。27章はこれに先立つ問題として、運用チームが自分たちよりずっと大きな開発チーム(例: 65名の SRE が3,500名のソフトウェアエンジニアの成果物をサポートする)の作った複雑なシステムを理解する負荷そのものを扱い、ORM のような抽象化やモノリシック設計がこの負荷にどう影響するかを論じる。これは Human Factors の「なぜ人間はその判断をしたか」という問いの手前にある「そもそも人間がシステムを理解しきれない構造的条件」を補う視点である。(Source: [[@2021__OReillyJapan__SREの探求 - Chapter 27 SREにおける心理的安全性]] §27.1.1.6「認知的過負荷」)
- **『SREの探求』28章は、27章が挙げる「認知的過負荷」という結果に、その発生機構を理論的に説明する枠組みを与える**: 27章は運用チームが心理的安全性を損ないやすい6要因の一つとして「自分たちより大きな開発チームをサポートする認知的過負荷」を挙げるが、その発生機構自体は詳述しない。28章はこれに先立つ理論として、SRE の日常業務(表28-1: パターン分類・行動方針の比較検討・犠牲を伴う意思決定・調整コストの管理等)が本質的に認知的作業であり、SRE は共同認知システム(JCS)の一員として単独では機能できないこと、さらにキャリブレーション問題(システムの複雑さが増すほど単一エージェントのメンタルモデルの精度が急速に低下するという Woods の法則)が SRE の認知的負荷の構造的な原因であることを示す。27章の「認知的過負荷」という現象記述と、28章の「なぜ過負荷が生じるか」という理論的説明を合わせると、運用チームの心理的安全性を損なう認知的要因の全体像がより立体的になる。(Source: [[@2021__OReillyJapan__SREの探求 - Chapter 27 SREにおける心理的安全性]] §27.1.1.6「認知的過負荷」, [[@2021__OReillyJapan__SREの探求 - Chapter 28 SREの認知的作業]] §28.2, §28.5)
- **「線より上」という空間的比喩が、Human Factors が繰り返し強調する「文脈」重視を視覚的なモデルへ落とし込む**: 本ページが集約する Lund・Eckhardt・Partington の知見はいずれも「なぜその人間の判断がその文脈で合理的だったか」という抽象的な問い方を共有するが、[[表現線]] が示す「線より上(人間の認知的活動)/線より下(技術そのもの)」というモデルは、この「文脈」を図解可能な構造として提示する。人間が技術を直接認識できず表現(アーティファクト)を介してのみ働きかけるという表現線の定式化は、Matt Davis の「人間のオブザーバビリティ」(技術的テレメトリとは独立した観測対象としての人間の状態)と同じ問題意識——技術的な「線より下」の観測だけでは人間の認知的作業を捉えられない——を、より根源的な理論のレベルで裏付ける。(Source: [[@2021__OReillyJapan__SREの探求 - Chapter 28 SREの認知的作業]] §28.5.1, [[@2023__SREcon23Americas__Human Observability of Incident Response]])
- **29章は「誰にでも認知と感情の限界がある」という命題に、精神障害という個人差の軸を明示的に加える**: 本ページが集約する Human Factors の知見は「ヒューマンエラーは分析の行き止まり」「人間は当時の情報で合理的に判断する」など、判断の文脈依存性を強調するが、いずれも「標準的な人間」を暗黙の前提としており、個人間の認知・感情特性の差異には踏み込まない。『SREの探求』29章は「ADHD の従業員がチェックリストのステップを見落とすかもしれないのは事実だが、そもそも自動化されていないからこそそのビジネスプロセスは脆弱なのだ」と述べ、Lund の「ヒューマンエラーは分析の行き止まり」と同型の論理(個人の失敗でなくプロセス設計の脆弱性を問う)を、精神障害・神経発達障害という個人差の文脈に明示的に拡張する。「誰にでも認知と感情の限界があるため、完璧な運用担当者を期待するのは成功に向けた戦略としては貧弱である」という29章の結論は、本ページが集約する「機械論的推論への批判」「完璧なオペレータを前提にしない」という既存の収束と同じ立場に立ちながら、その限界の分布が個人間で一様でないことを初めて明示する。(Source: [[@2021__OReillyJapan__SREの探求 - Chapter 29 燃え尽きを超えて]] §29.3)
- **30章はヒューマンエラー研究の定量データを持ち込み、本ページが集約する「ヒューマンエラーは分析の行き止まり」という質的主張に、ストレス下でどの程度パフォーマンスが劣化するかという量的な裏付けを与える**: 本ページの既存知見は、Lund の「Human Error は分析の行き止まり」・Eckhardt の「調査を始める場所」など、事後分析でヒューマンエラーを原因として確定させることへの批判に集中しており、ストレス下の人間がどの程度の頻度で誤るかという定量的データは扱ってこなかった。『SREの探求』30章は、タイピング・グラフ読み取り・試験作成など「些細な」活動の自然発生エラー率が0.5〜10%である一方、B. Kirwan と David J. Smith の文献によれば「ストレスがある複雑な非定型タスク」では25〜30%、バルブの位置確認のような「些細な」判断でもストレス下では50%まで上昇し、緊急事態発生から1分以内に適切な行動が取れなくなる確率は90%に達すると報告する。中級チェスプレイヤーは持ち時間が10秒を切ると重大なミスの確率が2倍になるという Microsoft の研究も引く。これらの数値は、Lund・Eckhardt が主張する「文脈が判断を規定する」という質的命題に、「その文脈(ストレス・時間切迫)が実際どの程度まで誤り率を押し上げるか」という定量的な尺度を与える。(Source: [[@2021__OReillyJapan__SREの探求 - Chapter 30 オンコール反対論]] §30.2)
- **30章が引くアンカリング効果は、Kahneman の一般理論を SRE のオンコール文脈に直接接続し、本ページの「文脈依存の認知バイアス」という論点に具体例を加える**: 30章は「限られた時間内でのグラフ解釈というコンテキストにおけるアンカリング効果は、オンコールの厄介な制約にとても近いものがある」と述べ、Daniel Kahneman の *Thinking, Fast and Slow* を典拠に、SRE がある種の「認知のねじれ」に影響を受けている証拠は豊富にあると論じる。これは Long(SREcon26 Americas)の「Ordinary Mind による ANS の抑制」という生理学的メカニズム(本ページ既出)とは異なる認知心理学の系譜から、同じ現象(ストレス下・時間切迫下での判断劣化)を説明するもので、身体的次元(Long)と認知バイアスの次元(30章のアンカリング)という異なる層からオンコール中の判断劣化を裏付け合う。(Source: [[@2021__OReillyJapan__SREの探求 - Chapter 30 オンコール反対論]] §30.2, [[@2026__SREcon26Americas__The Critical Resource Is You - Practical Destressing for On-Call Engineers]])
- **本ページが集約する「ヒューマンエラーは分析の行き止まり」というSRE実務者の収束(Lund・Eckhardt・Anatomy of an Incident)は、1980年代初頭の研究の転換に理論的起点をたどれる**: [[wiki/entities/Resilience Engineering|Resilience Engineering: Concepts and Precepts]] プロローグ(Woods & Hollnagel, 2006)は、1980年代初頭に研究者が複雑システムの障害データを再検討し「人間がシステム設計の隙間・変化・想定外の状況に適応する能力を通じて安全性に積極的に貢献している」ことを見出した経緯を辿る。Hollnagel(1983)は「エラー」の理論でなく遂行のばらつき(performance variability)を含む行為の理論の必要性を論じ、Rasmussen(1983)は「オペレータの役割は設計者の仕事の穴を埋めることだ」と述べた。本ページが既に集約する Lund の「Human Error は analytical dead end」・Eckhardt の「ヒューマンエラーは調査を終わらせる場所でなく始める場所」・Dekker の New View は、いずれもこの1980年代の理論的転換(人間を排除すべき不確実な部品から、適応する安全の源泉へ)を2010年代のSRE実務向けに再解釈したものと位置づけられる。SREコミュニティの言説として本ページが集約してきた収束は、実は40年前の学術的パラダイムシフトの反復であることが、この一次資料の遡及で確認できる。(Source: [[@2006__Ashgate__Resilience Engineering - Prologue Resilience Engineering Concepts]] p.4-5, [[@2019__SREcon19 Asia__A Tale of Two Postmortems - A Human Factors View]], [[@2019__SREcon19 Asia__Retrospectives for Humans (a crash course)]])
## 未解決の問い
- ポストモーテムで Human Factors アプローチを採用する場合、「個別インタビュー→デブリーフィング」という手順はどのくらいの時間・コストを要するか。Google SRE Workbook や PagerDuty の推奨プロセスとトレードオフはどう評価されるか。
- Dekker の4目的(認識論的・予防的・道徳的・実存的)のうち、SRE 実践で最も軽視されているのはどれか。道徳的目的と実存的目的はソフトウェア障害に適用可能か。
- 「Human Factors の流儀」が自動化・AI 主体のシステム運用にどう変容するか。エージェント型 SRE が拡大する文脈で人間の役割が縮小した場合、Human Factors の適用対象はどう変わるか。Redick の Trust Triangle と "Commanding the Chaos" は AI Ops 向け Human Factors の出発点だが、AI エージェントが L3-L4 レベルに達した組織での評価軸(人間は本当に Psychological Composure や Systems Thinking を担うか、それとも AI 生成の推薦を承認するだけになるか)は未整理。
## 関連
- [[@2006__Ashgate__Resilience Engineering - Prologue Resilience Engineering Concepts]] — 1980年代の理論的転換(Hollnagel 1983、Rasmussen 1983)を辿る一次資料
- [[レジリエンスエンジニアリング]] / [[wiki/entities/Resilience Engineering|Resilience Engineering: Concepts and Precepts]]
- [[ポストモーテム]] — Human Factors 視点から批判的検討を加えた主要文脈
- [[レジリエンスエンジニアリング]] — 密接に関連する姉妹領域
- [[自動化の皮肉]] — 人間の役割と自動化の逆説
- [[心理的安全性]] — カレンの物語が架橋する隣接概念
- 関連章: [[@2021__OReillyJapan__SREの探求 - Chapter 27 SREにおける心理的安全性]] — ローカル合理性の当事者視点、認知的過負荷
- 関連章: [[@2021__OReillyJapan__SREの探求 - Chapter 28 SREの認知的作業]] — 認知的過負荷の理論的説明、表現線モデル
- 関連章: [[@2021__OReillyJapan__SREの探求 - Chapter 29 燃え尽きを超えて]] — 「誰にでも認知と感情の限界がある」への個人差の軸の追加
- [[メンタルヘルスとインクルーシビティ]] — 精神障害という個人差の観点から人的要因を論じる隣接概念
- [[表現線]] / [[Joint Activity]] — 認知的作業を構造化する理論的枠組み
- [[オンコール]] — オンコールという慣行そのものの正当性を、人的コストの観点から問う上位概念
- [[@2021__OReillyJapan__SREの探求 - Chapter 30 オンコール反対論]] — ヒューマンエラー研究の定量データとアンカリング効果
- 一方向参照: [[structures/SRE - MOC]] (該当があれば)
## 出典
- [[@2006__Ashgate__Resilience Engineering - Prologue Resilience Engineering Concepts]] — Hollnagel, E., Woods, D. D., & Leveson, N. (Eds.), *Resilience Engineering: Concepts and Precepts*, Ashgate, 2006, Prologue(p.4-5: Hollnagel 1983、Rasmussen 1983)
- [[@2019__SREcon19 Asia__A Tale of Two Postmortems - A Human Factors View]]
- [[@2019__SREcon19Americas__Running Excellent Retrospectives - Talking for Humans]]
- [[@2022__SREcon22APAC__A Post Incident Review Review]] (p.16: Mechanistic Reasoning; p.18: Dekker's Tunnel)
- [[@2023__SREcon23Americas__Epic Incidents of History - The 1979 NORAD Nuclear Near Miss]]
- [[@2026__SREcon26Americas__The Critical Resource Is You - Practical Destressing for On-Call Engineers]]
- [[@2021__OReillyJapan__SREの探求 - Chapter 27 SREにおける心理的安全性]] — John Looney, David N. Blank-Edelman(編)『SREの探求』, オライリー・ジャパン, 2021, 27章
- [[@2021__OReillyJapan__SREの探求 - Chapter 28 SREの認知的作業]] — John Allspaw、Richard Cook, 同書, 2021, 28章(§28.2, §28.5: 認知的作業とキャリブレーション問題)
- [[@2021__OReillyJapan__SREの探求 - Chapter 29 燃え尽きを超えて]] — James Meickle, 同書, 2021, 29章(§29.3: 精神障害という個人差の軸)
- [[@2021__OReillyJapan__SREの探求 - Chapter 30 オンコール反対論]] — Niall Richard Murphy, 同書, 2021, 30章(§30.2: ヒューマンエラー研究の定量データ、アンカリング効果)