# プロセストレーシング
## 定義
プロセストレーシング(process tracing)は、認知システム工学(cognitive systems engineering)の研究手法であり、実務者の行為が生起した時系列データ(チャット記録・音声・映像・システムログなど)を素材として、実務者がどのように状況を把握し、意思決定し、協調したかという「プロセス」そのものを、事後的かつ詳細にたどり直す質的分析手法である。単発の事例を深く理解するための手法であり、統計的一般化ではなく、実務がどう行われたか(work as done)を実務者が経験したシステムに即して再構成することを目的とする(Source: [[@2020__PhD__Controlling the Costs of Coordination in Large-scale Distributed Software Systems - Chapter 4 Research Methods]])。
Maguire (2020) は、ChatOps(原語のまま)による協働が本来的に高い追跡可能性を備えている点に着目し、クリティカルデジタルインフラ(CDI)を「プロセストレーシングのための自然な実験室(natural laboratory)」として位置づけた。テキストベースのチャット記録・ビデオ会議録画・システムログなどの多様な痕跡を組み合わせることで、実際の障害における異常対応(anomaly response)の進行を、非侵襲的に(通常業務への影響を最小限にして)再構成できる点が、この領域固有の利点として挙げられている。
## 手続き(Maguire 2020 第4章の実装)
Maguire (2020) におけるプロセストレーシングは、以下の手順で実施された。手続きの再現性を優先し、各段階の規模を明記する。
1. **事例収集**: 62 件の事例を、利用可能なポストモーテムデータの読み込みと、協調の要素を含むかどうかを判定する軽量な一次コーディングによってレビューした。
2. **一次選別**: データ可用性のさらなる評価のために 14 件を選定した。
3. **最終コーパス確定**: 実務者が協調コストの制御にどう適応するかに焦点を当てる目的で、5 件のイベントを最終的な事例コーパスとして選定した。
4. **データ抽出・変換**: テキストのみのデータは JSON として抽出し、TSV に変換した後、質的研究分析ツール Churchkey にアップロードした。音声(ウェブ会議録音など)は Descript で文字起こしし、話者識別・誤り修正を経て TSV 化し、チャット記録の発話に音声由来の発話を重ね合わせる形で Churchkey に統合した。すべてのデータは秘密保持契約に基づき脱識別・匿名化した。
5. **一次コーディング**: 事例全体を、6 種の一次コード — **breaking down**(機能不全化。滑らかな協調が見えにくいのに対し、協調破綻はその過程を可視化する)、**forming/dissolving**(呼び込み(recruiting)。共同活動のために新たなグルーピングへ他者を関与させる過程。検知・診断・意思決定という契機で生じる)、**switching**(切替。コミュニケーション/協調の媒体の変化)、**crossing**(越境。チーム・組織・ベンダーといったグルーピング境界での協調的要求の拡大・縮小)、**synchronizing**(同期。活動のタイミング・順序・目標の調整)、**mentioning**(言及。協調に関する明示的なコミュニケーション) — でコーディングした。
6. **二次コーディング**: 一次パスで絞り込んだ事例に対して、協調コストにとって重要なコレオグラフィの要素 — recruiting(呼び込み)、common ground(共通基盤)、delegating(委任)、signaling、directability(指示可能性)、observability(観察可能性) — を核とする二次コードを反復的に付与した。ツールが関与する箇所(呼び込み・シグナリング・委任の支援)にはツール関連コードを付与し、さらに参加者を中核対応者との相対的な位置づけ(core / specialists / intra-organizational responders / inter-organizational responders)で層別した。
![[ch04-fig4.3-coding-framework.png]]
(Figure 4.3 Coding framework — 一次コード 6 種と二次コード群の 2 段階構成。Source: [[@2020__PhD__Controlling the Costs of Coordination in Large-scale Distributed Software Systems - Chapter 4 Research Methods]])
この手続き全体は、2 本の準備研究(インシデント対応モデルの調査、インシデント対応の構成の調査)によって蓄積された背景理解と、先行する文献レビューを土台にコーディング枠組みを構築した点が特徴である。プロセストレーシングは準備研究の延長ではなく、準備研究で確立した「実務がどう行われているかの見取り図」を前提として初めて成立する、より狭く深い分析段階として位置づけられる。
## 横断的知見
- **Allspaw (2015) は Maguire (2020) と同じ Woods (1993) の行動プロトコル分析(behavioural protocol analysis)を出典としつつ、5 年早く・単一事例1件だけに適用した「小規模版」のプロセストレーシングである**: [[@2015__MSc__Trade-Offs Under Pressure - Chapter 3 Research Design]]は、Etsy.com の障害 1 件を単一事例として、行動プロトコル(システムログ・デプロイ記録)と言語プロトコル(IRC記録・半構造化面接記録)を組み合わせるという、本ページが定義するプロセストレーシングの骨格をすでに実装していた。ただし規模は Maguire (2020) の 62 件→14 件→5 件という多段階の事例選定や、Churchkey によるマルチモーダルデータ統合、6 種の一次コード + 6 種の二次コードという体系化されたコーディング枠組みとは対照的に、単一事例に対する反復的なオープンコーディング(パイロット面接→コーディングスキーム改訂→残り参加者への面接)にとどまる。両者を並べると、プロセストレーシングという手法自体は 2015 年時点で(Woods 1993 由来の)行動プロトコル分析としてすでに確立していたが、事例コーパスの規模・コーディング体系の精緻化・ツール(Churchkey)による統合は、2015 年から 2020 年にかけて発展した層であることが分かる(Source: [[@2015__MSc__Trade-Offs Under Pressure - Chapter 3 Research Design]] p.23-28, [[@2020__PhD__Controlling the Costs of Coordination in Large-scale Distributed Software Systems - Chapter 4 Research Methods]])。
- **回顧的言語報告の妥当性への脅威(正当化バイアス)への対処として、Allspaw (2015) は Maguire (2020) が明示しない「刺激想起(cued/stimulated recall)」という具体的な面接技法を提供する**: [[@2015__MSc__Trade-Offs Under Pressure - Chapter 3 Research Design]]は、参加者に対して障害発生から約6週間後に、システムログとIRC記録を組み合わせた記録を「再生」しながら分岐点での推論を尋ねる刺激想起(Schulte-Mecklenbeck et al., 2011; Woods, 1993)を用い、これをクリティカルディシジョン法(CDM; Crandall, Klein, & Hoffman, 2006)に類似した方式と位置づける。本ページが集約する Maguire (2020) の記述は、半構造化面接の実施自体には触れるが、面接の技法としての刺激想起や正当化バイアスへの対処は明示しない。両ソースを合わせると、プロセストレーシングにおける言語プロトコル収集の「面接技法」の層が、Allspaw (2015) によってより具体的に補われる(Source: [[@2015__MSc__Trade-Offs Under Pressure - Chapter 3 Research Design]] p.25-26)。
- **同じ「複数インシデントを横断する」手法群のなかで、プロセストレーシングは唯一「単一事例の内部プロセスを時系列で深掘りする」方向を取る**: [[インシデント考古学]](Byrum / Spotify)と [[クロスインシデント分析]](Granda / Enova)はいずれも「個別インシデントの深掘りではなく複数インシデントを広く横断する」ことを主眼とする(「深さでなく広さ」)。対してプロセストレーシングは、事例コーパスを 62 件 → 14 件 → 5 件へと絞り込んだうえで、選ばれた少数事例それぞれの内部プロセスを詳細に(タイムスタンプ付き・マルチモーダルなデータで)再構成する「広さでなく深さ」の手法である。3手法は「インシデントデータを事後的に分析する」という共通の出発点を持ちながら、考古学とクロスインシデント分析が横方向のパターン発見を志向するのに対し、プロセストレーシングは縦方向(時系列内の因果・協調の推移)の再構成を志向するという点で補完的である(Source: [[@2020__PhD__Controlling the Costs of Coordination in Large-scale Distributed Software Systems - Chapter 4 Research Methods]] の事例選定手続き、および [[インシデント考古学]]・[[クロスインシデント分析]] の定義節)。
- **プロセストレーシングと[[インシデント調査戦略]]は「いつ」データを分析するかで区別される**: インシデント調査戦略(Sillito & Kutomi, 2020)が記述する体系的戦略・日和見的戦略は、インシデント対応の**最中に**エンジニアが根本原因を特定するために用いるリアルタイムの認知的方略である。対してプロセストレーシングは、インシデントが解決した**後に**、収集済みの多モーダルなデータをコーディング・再構成する研究手法である。両者は「対応者の認知プロセスを理解する」という関心を共有するが、調査戦略はインシデント対応者自身の一人称的な問題解決を追跡する一方、プロセストレーシングは研究者が三人称的にその協調プロセス全体を再構成する点で異なる(Source: [[@2020__PhD__Controlling the Costs of Coordination in Large-scale Distributed Software Systems - Chapter 4 Research Methods]]、[[インシデント調査戦略]])。
## 未解決の問い
- Allspaw (2015) の単一事例・小規模なコーディングサイクル(オープンコーディング→パイロット面接→スキーム改訂)から、Maguire (2020) の 6 種一次コード + 6 種二次コードという体系化されたコーディング枠組みへ、どのような中間段階を経て発展したか。両者の間に位置する他の適用事例は本 wiki に未 ingest。
- プロセストレーシングの一次コーディング(breaking down / forming-dissolving / switching / crossing / synchronizing / mentioning)は、[[インシデント考古学]]や[[クロスインシデント分析]]が用いる分類コード(根本原因カテゴリ、contributing cause など)とどの程度対応づけられるか。両者を同じ事例コーパスに適用した比較研究は存在するか。
- 62 件 → 14 件 → 5 件という強い事例の絞り込みは、選定バイアス(協調コストが顕著に可視化された「劇的な」事例が過大代表される可能性)をどの程度含むか。Maguire (2020) 自身はこの点を明示的には論じていない。
- Churchkey のようなマルチモーダルデータ統合ツール(チャット発話と音声発話の時系列統合)は、本論文以降の追試や他組織への適用でどの程度標準化されているか。
- プロセストレーシングの二次コーディング(recruiting・common ground・delegating・signaling・directability・observability)は、[[Joint Activity]] や [[Common Grounding]] の理論的構成概念とどのように対応するか。理論駆動のコード設計と事例からのボトムアップなコード発見の関係が本章の記述だけでは十分に追えない。
## 関連
- [[@2020__PhD__Controlling the Costs of Coordination in Large-scale Distributed Software Systems - Chapter 4 Research Methods]] — 本概念の一次ソース。手続きの詳細・数値
- [[@2015__MSc__Trade-Offs Under Pressure - Chapter 3 Research Design]] — 2015年時点での、より小規模な行動プロトコル分析の実装例。刺激想起(cued recall)という面接技法を補う
- [[インシデント考古学]] — 複数インシデントを横断する事後分析という点で近縁だが、単一事例の深掘りという点で対照的
- [[クロスインシデント分析]] — 同上。継続的プログラムとして常設化される点も対照的
- [[インシデント調査戦略]] — インシデント対応中のリアルタイム認知的方略。プロセストレーシングは事後の研究手法である点で異なる
- [[レジリエンスエンジニアリング]] — 認知システム工学の親領域
- [[Laura Maguire]]
## 出典
- [[@2020__PhD__Controlling the Costs of Coordination in Large-scale Distributed Software Systems - Chapter 4 Research Methods]] — 本概念の一次ソース。手続きの詳細・数値
- [[@2015__MSc__Trade-Offs Under Pressure - Chapter 3 Research Design]] — 2015年時点での行動プロトコル分析の実装例(2026-08-25 追加)