# プラクティスのコミュニティ
## 定義
プラクティスのコミュニティ(community of practice)とは、経験・手法・解決策を共有することで固有の語彙(ジャーゴン)と価値観を形成していく専門家集団である。『ウェブオペレーション』16章は、オペレーション(運用)をブログ・カンファレンス・書籍によって形作られるプラクティスのコミュニティの一つとして描き、開発・営業・マーケティング・テスト・デザインもそれぞれ固有のジャーゴンと価値観を持つ別のコミュニティであるとする。異なるコミュニティの間には「混乱の壁」が存在し、経営層から続く組織構造がこの壁を強化する一方、各コミュニティは壁の内側で自分たちの利益を守ろうとする。しかし、いずれの部門も単独では利益を生み出せないという意味で、全体としては一つの「利益共同体」の一員である。(Source: [[@2011__OReillyJapan__ウェブオペレーション - Chapter 16 アジャイルインフラストラクチャ]] §16.3)
異なる価値観・語彙を持つコミュニティが協働するための枠組みとして、16章は物理学者ピーター・ギャリソンが粒子検出器とレーダーの開発史を説明するために用いた「トレーディングゾーン(trading zone)」というメタファを援用する。交換の目的が違っていても、2つのグループは交換ルールには合意できる。より洗練された協働では、部分的なジャーゴン・中間的なピジン語・完成形のクレオール言語を使って複雑な活動を支援する(Galison, P. [1997]. *Image & Logic: A Material Culture of Microphysics*. Chicago: The University of Chicago Press, p.783 を16章が引用)。両方の文化に精通したファシリテータがいれば、交換に必要な言語が生まれる過程を緩和できる。加えて16章は、社会学者スーザン・スターが提唱した「境界オブジェクト(boundary object)」——情報・バージョン管理・メトリクス・目標・空間の共有——が、コミュニケーションと協調をファシリテートし、問題の多くを発生前に解決すると位置づける。(Source: [[@2011__OReillyJapan__ウェブオペレーション - Chapter 16 アジャイルインフラストラクチャ]] §16.4)
異なるコミュニティ間の協働を妨げる根本原因として、16章は「信頼の欠如」を挙げる。開発チームに技術導入(バージョン管理・自動デプロイ)を提案しても「あり得ない」と二の足を踏まれ、同じビジネス価値を共有するはずの他チームとは表面的にしか会話しない——「彼ら」は「我々」ではないという認識——という具体例を示し、この現象をジークムント・フロイトの「わずかな違いのナルシズム(narcissism of small differences)」(他人と自分を区別するわずかな違いに誇りを持ち、自分と似た人に負の感情を抱く現象)になぞらえる。信頼の負債は技術的負債やお金の負債よりも返済が難しく、惰性とエントロピーを克服する認識・規律・勇気を要する。境界オブジェクトの共有と、驚きや謝罪を最小化する共同体の文化があれば、信頼は複利で増えていく。(Source: [[@2011__OReillyJapan__ウェブオペレーション - Chapter 16 アジャイルインフラストラクチャ]] §16.4)
## 横断的知見
- **「混乱の壁」という比喩(2011年)と、Facebookの物理的レイアウトによる分断(2015年、SREcon15)は、異なる時代・異なる語彙で同じ現象——組織構造が dev/ops 間の距離を作り出す——を独立に記録している**: 16章は開発者と運用者の間の壁を、責任・世界観・マネジメントの違いに由来する抽象的な「混乱の壁」(図16-1)として描き、経営層から続く組織構造がこれを強化すると述べる。一方 [[SRE組織変革]] が記録する [[Pedro Canahuati]] の証言(SREcon15)は、2009年のFacebookでソフトウェアエンジニアが ops チームに会うには廊下を20〜25フィート歩く必要があり、途中に会議室が並ぶレイアウトが「空間的障壁」として機能していたという、具体的で測定可能な形で同種の壁を報告する。16章が壁を組織文化・信頼の問題として抽象的に語るのに対し、SREcon15の事例はそれが物理的な建築レイアウトという具体的な媒体にも宿ることを示しており、両者を並べると「混乱の壁」は比喩にとどまらず、オフィス設計という即物的な変数としても現れうることが分かる。(Source: [[@2011__OReillyJapan__ウェブオペレーション - Chapter 16 アジャイルインフラストラクチャ]] §16.1.2, [[SRE組織変革]])
- **「ops という名前が残る限りステレオタイプが消えない」(Facebook, 2015年)は、16章が描く「彼ら」対「我々」という認識の固着が、改名程度の介入では解けないことを裏づける具体例である**: 16章は、信頼の欠如の根底に「彼らは我々ではない」という認識があると指摘するが、その認識がどれほど強固かは論じない。[[SRE組織変革]] が記録するFacebookの事例は、AppOpsからProduction Engineeringへの改名後もチーム名に「ops」が残る限り新入りのソフトウェアエンジニアが古い認識モデルを持ち込み続けたと報告しており、16章が言う「わずかな違いのナルシズム」的な認識の固着が、名称変更という表層的な介入では解消されないことを別の書籍・別の時代から裏づける。(Source: [[@2011__OReillyJapan__ウェブオペレーション - Chapter 16 アジャイルインフラストラクチャ]] §16.4, [[SRE組織変革]])
## 未解決の問い
- トレーディングゾーンの構築に必要な「両方の文化に精通したファシリテータ」は、具体的にどのような役割・スキルセットを持つべきか。16章はこの人物像を抽象的にしか描いていない。
- 境界オブジェクト(情報・バージョン管理・メトリクス・目標・空間の共有)のうち、どれが最も効果的に信頼を構築するかについて、16章は優先順位を示していない。他ソースでの実証例は本ページの現ソース群では未検証。
- 「混乱の壁」が経営層から続く組織構造に起因するという16章の指摘と、Facebookの物理的レイアウトによる分断(SREcon15)を踏まえると、組織構造・オフィス設計・命名という3つの異なる媒体のうち、どれを変えることが壁の解消に最も効果的か。
- 信頼の負債という比喩は、[[技術的負債]]・[[ソシオテクニカル負債]]と比べてどこまで独立した枠組みか、それとも後者に包摂される一事例か。本ページの現ソース群では未整理。
## 関連
- 概念: [[DevOps]](本ページの「混乱の壁」「利益共同体」は DevOps 起源の当事者による記述) / [[SRE組織変革]](dev/ops 分断の別の具体例) / [[技術的負債]] / [[ソシオテクニカル負債]]
- 実体: [[Andrew Clay Shafer]]
- source: [[@2011__OReillyJapan__ウェブオペレーション - Chapter 16 アジャイルインフラストラクチャ]]
## 出典
- アンドリュー・クレイ・シェーファー, 「アジャイルインフラストラクチャ」, 『ウェブオペレーション ―サイト運用管理の実践テクニック』, オライリー・ジャパン, 2011, 16章, §16.3, §16.4.