# パスキー認証 ## 定義 パスキー(正式にはディスカバラブルクレデンシャル)は、W3CのWeb Authentication(WebAuthn)仕様で定義される認証方式であり、FIDOアライアンス(Fast Identity Online Alliance)による先行する取り組みから発展してきた。基本的な考え方は、ユーザー(実際にはユーザーが所有するデバイスであることが多い)がWebサイトごとに専用の秘密鍵と公開鍵のペアを作成し、公開鍵だけをWebサイトに渡すというものである。次回以降の認証では、Webサイトがチャレンジを発行し、ユーザーはローカルに保存された秘密鍵を使ってそのチャレンジへの応答に署名する。Webサイト側は保存済みの公開鍵で検証する。言い換えれば、パスキーはパスワードを公開鍵暗号で置き換えるものである。(Source: [[@2026__LambdaNote__ネットワークシステムについて語るときに我々の語ること - Chapter 8 セキュリティ:負の目標]] ch.8 §8.6) 秘密鍵がデバイスの外へ出ないことに加え、パスキーはサイトごとに固有であり、認証を要求しているサイトとパスキーを最初に作ったサイトの対応関係が実装によって必ず検証されるため、フィッシング攻撃(偽サイトへの誘導によるパスワード窃取)や複数サイト間でのパスワード使い回しの問題を原理的に回避できる。実装は大きく二つに分類できる。一つはハードウェア(USBキーやスマートフォンの生体認証)に鍵を紐付ける方式で、鍵への物理的アクセスがない限りフィッシング攻撃をほぼ不可能にする。もう一つはパスワードマネージャを介して複数デバイス間で認証情報を同期する方式で、こちらは同期に使うクラウドサービスの認証情報が攻撃者に渡ればパスキーにもアクセスされてしまうリスクを負う(そのため一般に別途MFAで保護される)。(Source: [[@2026__LambdaNote__ネットワークシステムについて語るときに我々の語ること - Chapter 8 セキュリティ:負の目標]] ch.8 §8.6) パスキーが抱える構造的な弱点は二つある。第一に、パスキー導入をブートストラップするには従来型の認証(ユーザー名とパスワードなど)を使わざるを得ず、この段階は依然として従来型の攻撃に脆弱である。Webサイトがパスキー導入後もパスワードによるログイン試行を禁じない限り、システム全体としては以前とほぼ同程度にフィッシングに脆弱なままであり、パスキーは現状パスワードの完全な代替ではなく追加の手段にとどまる。第二に、実装のユーザー体験が一貫していない。実例として、あるサイトに第二要素としてセキュリティキーを追加しようとした際、パスワードマネージャ・OS(macOS Touch ID)・ブラウザの三者がそれぞれ異なる用語(パスキーかセキュリティキーか)とユースケース(パスワードの置き換えか強力な第二要素か)で「パスキーを保存する唯一正しい場所」を主張し合い、公開鍵暗号を30年以上使ってきた経験者でさえ混乱する体験になった。(Source: [[@2026__LambdaNote__ネットワークシステムについて語るときに我々の語ること - Chapter 8 セキュリティ:負の目標]] ch.8 §8.6) ## 横断的知見 - *Principles of Computer System Design* 第11章は、プリンシパル認証の検証方式を「本人の物理的特徴を使う方式」「本人が所有する何かを使う方式(スマートカードなど)」「本人だけが知る何かを使う方式(パスワード)」の3分類で整理する(§11.2.2)。パスキーはこの分類に照らすと、秘密鍵を保持するデバイス自体が「所有する何か」に相当し、デバイス側の生体認証(指紋・顔)による解錠が「本人の物理的特徴」を組み合わせる構成になっている。第8章はこの3分類の枠組みを明示的には使わずパスキーを公開鍵暗号によるパスワード代替として説明するが、両者を突き合わせると、パスキーは「所有する何か」と「物理的特徴」を多層防御的に組み合わせることで、パスワード(「知る何か」のみに依存し漏洩・使い回しに弱い)の構造的弱点を回避する設計だと整理できる。本章は各方式の強度がその方式固有の脆弱性(スマートカードの複製困難性、生体認証のユーザーインタフェース受容性など)に依存すると指摘しており、パスキーの二つの実装形態(ハードウェア紐付け型/クラウド同期型)がこのトレードオフのどちらに寄るかを説明する一般原理を提供する。(Source: [[@2009__MITOCW__Principles of Computer System Design - Chapter 11 Information Security]] ch.11 §11.2.2, [[@2026__LambdaNote__ネットワークシステムについて語るときに我々の語ること - Chapter 8 セキュリティ:負の目標]] ch.8 §8.6) - *Security Engineering* 3e 第17章は、パスキーのハードウェア紐付け型実装が前提とする「デバイス側の生体認証による解錠」には固有の誤り率と社会的排除の問題があることを、独立した専門文献(生体認証)の側から裏付ける。パスキー側の文献(第8章)は生体認証を「フィッシング耐性を持つデバイス紐付け鍵をロック解除する手段」として肯定的に前提しているが、ch.17は同じ機構について、Apple自身がiPhone Xの顔認証を「誤受理率100万分の1」(指紋読み取り機の「5万分の1」より優れる)と主張しつつも著者の実体験として「一卵性でない孫娘たちの誰でも互いの端末を解錠できてしまう」という家族間誤受理の問題を報告し、指紋・顔ともに閾値調整で誤受理率と誤拒否率がトレードオフになる構造的限界を持つと指摘する。両ソースを合わせると、パスキーの安全性は「秘密鍵がデバイス外に出ない」という暗号的性質には依存するが、その鍵へのアクセスをゲートする生体認証ステップ自体は、暗号とは異なる誤り率の限界(goats/lambs/wolves、家族間の誤受理)を抱えたままであり、パスキーの脅威モデルは暗号強度の議論だけでは閉じないことが分かる。(Source: [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 17 Biometrics]] ch.17 §17.3, §17.8, [[@2026__LambdaNote__ネットワークシステムについて語るときに我々の語ること - Chapter 8 セキュリティ:負の目標]] ch.8 §8.6) ## 未解決の問い - パスキーの実装(ブートストラップ認証への依存、三者競合するUX)が改善されれば、本章が懸念する「PGPやTLSクライアント証明書の二の舞」(技術的に妥当でも大多数のユーザーに浸透しない)を避けられるのか、それとも構造的に不可避な帰結なのかは、本章では判断が示されていない。 - パスワードによるログイン試行を完全に禁止する(パスキーのみを許可する)Webサイトが増えれば、ブートストラップの脆弱性は解消に向かうと考えられるが、そのようなサイトが実際にどの程度存在するかについて本章に定量的なデータはない。 - パスキーの「ユーザーの負担を小さくする」という当初の存在意義が実装で果たされていない点について、W3C・FIDOアライアンス側の標準改訂がこの摩擦(用語・UXの不統一)を解消する計画を持っているかは本章の範囲外。 ## 関連 - ソース: [[@2026__LambdaNote__ネットワークシステムについて語るときに我々の語ること - Chapter 8 セキュリティ:負の目標]](§8.6) / [[@2009__MITOCW__Principles of Computer System Design - Chapter 11 Information Security]](§11.2.2) / [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 17 Biometrics]](§17.3, §17.8) - 概念: [[ネットワークセキュリティアーキテクチャ]](セキュリティにはシステムとユーザーのインタラクションの設計が不可欠だという主張の具体例) / [[生体認証]](パスキーのハードウェア紐付け実装がロック解除に使う生体認証ステップ自体の誤り率・限界) ## 出典 - Larry Peterson・Bruce Davie 著, 進藤資訓 訳, 『ネットワークシステムについて語るときに我々の語ること』, ラムダノート, 2026, 第8章 §8.6. - Jerome H. Saltzer and M. Frans Kaashoek, *Principles of Computer System Design: An Introduction*, Version 5.0, 2009, Chapter 11 §11.2.2. MIT OpenCourseWare, CC BY-NC-SA 3.0 US. - Ross Anderson, *Security Engineering: A Guide to Building Dependable Distributed Systems*, 3rd Edition, John Wiley & Sons, 2020, Chapter 17, §17.3, §17.8.