# テロリズムの政治学と心理学 ## 定義 テロリズムの政治学と心理学とは、政治的暴力の発生原因・心理的機制・政治制度の対応という3つの層で、テロリズムが実際にはどう機能し、なぜ政策的対応が歪むのかを説明する枠組みである。第一の層(発生原因)では、Paul CollierとAnke Hoefflerの世界銀行研究(1960〜1999年の内戦を分析)が、内戦の発生を左右するのは不満(grievance、不平等・政治的権利の欠如・民族宗教対立)よりも、反乱を継続できる経済的実行可能性(greed)であることを示す——IRAはソ連圏とリビアの資金援助を、スリランカのタミル反乱はタミル系移民の資金を、アルカイダは湾岸の富裕な篤志家の資金を、それぞれ原資にしていた。政治的暴力そのものの長期趨勢は、冷戦終結による代理戦争資金の消滅とともに一貫して減少している。(Source: [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 26 Surveillance or Privacy?]] §26.3.1) 第二の層(心理学)は、感情に基づく判断(affect heuristic)——宝くじの当選のような幸福な出来事では長いオッズが無視され、テロ攻撃のような悲惨な出来事ではその稀少性が無視される——と、Tom Pyszczynski・Sheldon Solomon・Jeff Greenbergによる**恐怖管理理論**(terror management theory)を扱う。彼らのアリゾナ州ツーソンの判事22名を対象にした実験では、自らの死を意識させる質問を受けた群が設定した保釈金の平均額(455ドル)は、統制群(50ドル)の約9倍に達した。死を意識した人間は文化的規範への同調と自らの世界観の防衛を強める傾向を持ち、これが9/11後の宗教心の高まり・愛国心・排外主義の同時発生を説明する。この心理機制は、報道機関の分析(死者数が1人増えるごとに報道量が46%増加する)や、イスラム教徒による攻撃が他の攻撃より357%多く報道されテロと呼ばれる比率も78.4%対23.6%と偏る、という具体的な数値によって裏付けられる。(Source: [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 26 Surveillance or Privacy?]] §26.3.2) 第三の層(制度)は、James Buchananの公共選択論(public-choice economics)を援用し、官僚が管轄権の拡大(span of control)によって、政治家が再選確率の最大化によって動機づけられるという方法論的個人主義から政府の行動を説明する。英国の9/11後の対応(国家IDカードという2兆円規模の見当違いのプロジェクトへの資金集中)や、米国のイラク侵攻を巡る国防総省内の利害(戦車・空母・戦闘爆撃機の配備機会を求める「ペンタゴンの領主たち」)がその実例である。メディアの自己利益(悲惨なニュースほど売れる)と、恐怖と怒りを煽るほど滞在時間を延ばすレコメンドアルゴリズムが、政治家の再選インセンティブと結びつくことで、テロの脅威が体系的に誇張される。民主主義の対応としては、Presidents Kennedy・Johnson・Nixon・Fordのようにテロを無視した指導者や、Margaret Thatcherのようにテロリストを一般犯罪者として扱った指導者が、恐怖を政治利用した指導者(Tony Blair)よりも長期的に高い支持を得たことを、著者は歴史的な比較から示す。(Source: [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 26 Surveillance or Privacy?]] §26.3.3, §26.3.4) ## 横断的知見 (本概念は現時点で単一ソース([[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 26 Surveillance or Privacy?]])のみに基づく。将来、心理学・公共選択論・テロリズム研究の一次資料が本wikiにingestされ次第、恐怖管理理論と他の認知バイアス研究(アベイラビリティヒューリスティック等)、あるいは公共選択論と他章のインセンティブ設計論との突き合わせを行う。) ## 未解決の問い - 恐怖管理理論の判事実験(1980年代、22名という小規模サンプル)は、その後どの程度追試・頑健性検証がなされているか。本章はこの実験を9/11後の社会現象の説明として援用するが、実験自体の再現性には立ち入らない。 - Max Abrahmsの研究(テロリストが政治的信条ではなく社会的連帯を求めて集団に参加する)と、Lydia Wilsonのシリア渡航者へのインタビュー(過激派組織への参加は宗教・スポーツクラブへの参加と本質的に変わらない)は、本章第26.4.2節の過激化論とも接続するが、本概念では発生原因・心理学の層として整理するにとどめた。過激化のメカニズムと検閲政策の効果は[[検閲とコンテンツモデレーション]]で扱う関係をどう整理するか、今後の参照で検証したい。 - 「テロの脅威の誇張が資源配分を歪める」という公共選択論的な説明は、COVID-19パンデミックへの資源配分の誤り(本章が指摘する対比)以外の政策領域(気候変動対策等)にどこまで一般化できるか、本章は明示的には論じていない。 - Collier-Hoefflerの「grievance対greed」モデルは1960-1999年のデータに基づくが、2001年以降のテロ(アルカイダ・イスラム国)や国内発の過激主義(白人至上主義)にどこまで当てはまるかは、本章の記述だけでは検証できない。 ## 関連 - ソース: [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 26 Surveillance or Privacy?]](§26.3-§26.3.4) - 概念: [[国家監視の歴史と法制度]](テロ対策が国家監視拡大の主要な政治的口実となった経緯) / [[検閲とコンテンツモデレーション]](過激化とコンテンツモデレーションの接続) / [[敵対者の類型論]](テロリストという敵対者類型の位置づけ) ## 出典 - Ross Anderson, *Security Engineering: A Guide to Building Dependable Distributed Systems*, 3rd Edition, John Wiley & Sons, 2020, Chapter 26, §26.3-§26.3.4.