# セキュリティ経済学 (Security Economics)
## 定義
セキュリティ経済学とは、ミクロ経済学・ゲーム理論・行動経済学の道具立てを、セキュリティおよびシステムの依存可能性(dependability)の問題に応用する分野である。2000年前後、多くのセキュリティ障害が技術的な誤りではなく誤ったインセンティブに起因することが認識され始めたことをきっかけに成立した。Ross Anderson自身の銀行の情報セキュリティ投資に関する観察と、Hal Varianによるアンチウイルスソフトへの支出が過小である理由の調査が2001年に合流し、2002年にBerkeleyで開催されたWorkshop on the Economics of Information Security(WEIS)が分野の発足点となった。WEISは以後毎年開催されている。分野が扱う対象は、プライバシー・バグ・スパム・フィッシングといった狭義の「セキュリティ」トピックにとどまらず、プログラマとテスタの最適な労力配分、サイバー犯罪のコストとその対策の費用対効果、保護機構が消費者の権利や競争政策に及ぼす影響、防御努力を個人・ベンダー・規制当局・警察のどこに配分すべきかという公私の境界問題にまで及ぶ。(Source: [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 8 Economics]] §8.1, §8.6)
## 横断的知見
- **第24章(Copyright and DRM)は、セキュリティ経済学の予測力を裏づける具体的な検証事例を提供する**: 2005年にGoogleのチーフエコノミストHal Varianが、DRM強化の受益者を経済理論(集中度の高い産業ほど技術的連結から利益を得る、車メーカーと自動車部品メーカーの例)から予測し、当時は集中度の低かった音楽産業ではなく、集中度の高いプラットフォーム産業(当時のApple・Microsoft・Sony)がDRM強化の恩恵を受けると論じた。音楽業界はこれを一蹴したが、同年末には音楽メジャーがAppleのFairPlay DRMを開放するよう英国政府・欧州委員会に泣きついており、その後数年でApple・Amazon・Spotify・Netflixへ市場支配力が移ったことで予測が的中した。これは本概念(第8章)が示す理論的枠組みが、単なる事後説明にとどまらず前向きな予測に使えることを、同一書籍内の独立した章(第24章)の具体的な歴史的経緯によって実証する数少ない例である。(Source: [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 8 Economics]] ch.8 §8.1, [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 24 Copyright and DRM]] ch.24 §24.5.2)
- **本書の結語(第29章)は、著者自身が分野の成立史を版を追って回顧する数少ない一次記述である**: 第8章が理論的枠組み(誰が守り誰が失敗のコストを負うか)を体系的に論じるのに対し、第29章は本書全体を締めくくる立場から「2001年以降、多くの持続的なセキュリティ障害はインセンティブの失敗が本質だと認識されるようになり、これがセキュリティ経済学の成長を導いた」と述べたうえで、初版(2001年)がこの分野の勃興を後押ししたこと、第2版(2008年)がユーザビリティの問題を記録したこと、その後の10年でセキュリティ心理学の研究が進んだことを、版を重ねた歴史として位置づける。第8章単体では分野の理論的内容が中心だが、第29章と突き合わせることで、経済学→ユーザビリティ→心理学という研究の重心移動が、書籍自体の版の変遷と対応づけて語られていることが分かる。(Source: [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 29 Beyond “Computer Says No”]] p.1059, [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 8 Economics]] §8.1)
- **第28章のフォーラムショッピングモデル(Lerner-Tirole, 2006)は、セキュリティ経済学の応用対象を「なぜ市場が失敗するか」から「認証・評価制度という具体的な政策手段をどう設計すべきか」へと一段具体化する**: 第8章はセキュリティ経済学を「プログラマとテスタの労力配分」「サイバー犯罪対策の費用対効果」「防御努力の公私境界」といった分野全体の見取り図として提示するにとどまるが、第28章§28.2.8は同分野の道具立て(ゲーム理論・市場構造分析)を、Common Criteriaのような第三者評価制度がなぜフォーラムショッピングやカルテル化に陥るかという具体的な政策設計問題に適用したLerner-Tiroleの三段階ゲームモデルを紹介する。これは本概念が定義する「セキュリティ経済学」の応用範囲が、市場の失敗の説明にとどまらず認証制度の設計原理にまで及ぶことを示す具体例であり、詳細は [[セキュリティ評価制度]] を参照。(Source: [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 28 Assurance and Sustainability]] ch.28 §28.2.8, [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 8 Economics]] ch.8 §8.1)
## 未解決の問い
- ~~WEISが2002年以降どのように分野の研究アジェンダを広げてきたか~~ → 第28章の結び(§28.6)で著者自身が「セキュリティ経済学は2000年代のホットトピックであり、セキュリティ心理学が2010年代のそれで、2020年代はセキュリティの政治学が成長分野になるだろう」と時代区分を述べている。これはWEIS以後の分野の展開そのものの詳細(具体的な研究テーマの広がり)には答えないが、著者が自ら分野の盛衰を年代で区切って語っている点で、成立史をたどる手がかりにはなる。第29章の版を追った回顧(既出の横断的知見)と合わせて、経済学→心理学→政治学という研究の重心移動の大枠は本書内で確認できたため、本問いは一部解決したものと見なし、残る問い(具体的な研究アジェンダの広がり)は本書の範囲を超えるとして本節から落とす。(Source: [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 28 Assurance and Sustainability]] ch.28 §28.6)
- セキュリティ経済学の知見(構造モデル・非対称情報など)は、SRE領域のインシデント対応・信頼性投資の意思決定にどこまで転用できるか。[[ゲーム理論とSRE]]が扱うメカニズムデザインとの接続点はあるか。
- Varianの2005年の集中度理論は、DRM以外の技術的連結(たとえばアクセサリ制御、[[アクセサリ制御]]参照)にもそのまま当てはまるか。第24章はアクセサリ制御について独立に「市場の競争性次第」という別の分析枠組みを提示しており、両者(集中度理論と競争性分析)の関係は本書内で明示的に統合されていない。
## 関連
- 概念: [[セキュリティにおけるインセンティブ不整合]] / [[情報経済学]] / [[ゲーム理論とSRE]] / [[アクセサリ制御]] / [[セキュリティ評価制度]](Lerner-Tiroleのフォーラムショッピングモデル)
- source: [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 8 Economics]] — 分野の成立史と全体像を扱う一次資料 / [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 24 Copyright and DRM]] — Varianの予測とその的中を扱う事例 / [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 29 Beyond “Computer Says No”]] — 本書の結語として分野の成立史を版を追って回顧する / [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 28 Assurance and Sustainability]] — フォーラムショッピングモデルによる認証制度設計への応用
- 実体: [[Ross Anderson]] — Hal Varianとともに分野の共同創始者
## 出典
- Ross Anderson, *Security Engineering: A Guide to Building Dependable Distributed Systems*, 3rd Edition, John Wiley & Sons, 2020, Chapter 8 (§8.1, §8.6).
- Ross Anderson, *Security Engineering: A Guide to Building Dependable Distributed Systems*, 3rd Edition, John Wiley & Sons, 2020, Chapter 24 (§24.5.2).
- [[@2020__Wiley__Security Engineering 3e - Chapter 29 Beyond “Computer Says No”]], p.1059.
- Ross Anderson, *Security Engineering: A Guide to Building Dependable Distributed Systems*, 3rd Edition, John Wiley & Sons, 2020, Chapter 28 (§28.2.8, §28.6).