# 日本企業におけるSREの実践とSLI/SLO管理:構造的課題と進化の展望に関する包括的調査報告書 ## 1. 序論:デジタルトランスフォーメーションの深層とSREの必然性 現代の日本企業において、デジタルトランスフォーメーション(DX)はもはや選択肢ではなく、生存をかけた必須の戦略となっている。経済産業省が警鐘を鳴らす「2025年の崖」が目前に迫る中、レガシーシステムからの脱却とクラウドネイティブな開発体制への移行は、企業の競争力を左右する最大の要因である。この激動の最中において、Googleが提唱したSite Reliability Engineering(SRE)という概念は、単なる「インフラ運用の効率化」という枠組みを超え、ビジネスの速度と信頼性のバランスを統制するための経営的フレームワークとして注目を集めている。 しかし、欧米で生まれたSREの原則を、日本の伝統的な組織構造や商習慣、そして長年蓄積された技術的負債の上に適用することは、極めて複雑な摩擦を生じさせている。特に、SREの核心とも言えるSLI(Service Level Indicator:サービスレベル指標)およびSLO(Service Level Objective:サービスレベル目標)の策定と管理においては、多くの現場が理想と現実のギャップに苦悩しているのが現状である。 本報告書は、日本国内のSRE実践に関する最新の調査データ、カンファレンスでの登壇資料、および業界の動向分析を基に、日本企業が直面している課題を網羅的に調査・分析したものである。技術的な実装の詳細から、組織文化、経営層との合意形成、そして人材戦略に至るまで、多層的な視点から課題の深層を解き明かす。 ## 2. SLI/SLO管理における技術的・実務的課題の深層分析 SREの実践において、SLI/SLOはサービスの健全性を定義する羅針盤である。しかし、その羅針盤を正しく設定し、運用に乗せる過程には、SRE NEXT 2024等のカンファレンスでも議論されるような、現場レベルでの切実な課題が山積している1。 ### 2.1 ユーザージャーニーとシステムメトリクスの乖離 SLO運用の初期段階において最も頻発する問題は、設定された指標が実際のユーザー体験(User Experience)を正確に反映していないという点にある。多くの組織では、CPU使用率、メモリ残量、あるいは単なるHTTPステータスコードの成功率といった、インフラストラクチャ視点の「システムメトリクス」を安易にSLIとして採用してしまう傾向がある。これらは計測が容易であり、既存の監視ツールで即座に可視化できるためである。 しかし、SRE NEXT 2024の登壇資料でも指摘されている通り、「現行のSLOではユーザージャーニーを表現しきれていない」という課題が深刻化している1。例えば、CPU使用率が低く安定していても、データベースのロック待ちによって決済処理が遅延し、ユーザーがカート離脱を起こしているケースなど、システムメトリクスだけでは捕捉できない「ビジネス上の痛み」が存在する。 ユーザーが目的を達成するための一連の行動フローである「クリティカルユーザージャーニー(CUJ)」をSLIとして定義するには、アプリケーション内部のロジックに踏み込んだ計測が必要となる。これには、フロントエンドからバックエンド、データベースに至るまでの分散トレーシングや、リアルユーザーモニタリング(RUM)といった高度な可観測性(オブザーバビリティ)の実装が不可欠であり、その技術的ハードルと実装コストが障壁となっている1。 ### 2.2 SLO値の最適化:動的な調整の難易度 SLOの具体的な目標値(例:99.9%なのか99.99%なのか)を決定し、それを維持・調整していくプロセスもまた、極めて困難を極める。理想的なSREのサイクルでは、初期値として実績ベースの緩やかなSLOを設定し、運用を通じて徐々にビジネス要求に即した値へとチューニングしていくアプローチが推奨される1。 しかし、日本の企業文化において、一度設定された「目標値」は、必達すべき「コミットメント」として固定化されやすい性質を持つ。そのため、運用開始後に「SLOが厳しすぎるため緩和する」という提案が、品質の低下と誤解され、組織的な承認を得にくいという力学が働く。逆に、安全マージンを取りすぎて低すぎるSLOを設定した場合、エラーバジェットが永遠に枯渇せず、SREの目的である「信頼性を担保した上での開発速度の向上(リスクテイク)」が機能しなくなる。 SRE NEXT 2024の資料では、この「SLOの値の調整の最適化が難しい」という点が明確な課題として挙げられており、継続的な調整を行うためのレビューフローの整備や、組織としてのリテラシー向上が求められている1。 ### 2.3 リテラシー不足と運用コストの増大 SLI/SLOの定義と運用には、エンジニアリングの知識だけでなく、統計学的な理解やビジネスへの影響度を見積もる能力など、高度なリテラシーが要求される。定義自体にコストがかかる上、システムの進化に合わせてメンテナンスを続ける運用コストも無視できない1。 特に、専任のSREチームを持たない組織や、開発チームが運用を兼務している場合、機能開発の圧力に押されてSLOの見直しが後回しにされ、形骸化するケースが後を絶たない。「レビューフローの整備」が必要であることは認識されていても、そのための人的リソースや時間の確保がボトルネックとなり、結果として「死んだ指標」がダッシュボードに表示され続けるという状況に陥っている1。 ## 3. オブザーバビリティ(可観測性)ツールの導入実態とデータの氾濫 SLI/SLOを正確に計測するためには、システムの状態を詳細に把握するオブザーバビリティ(可観測性)ツールの導入が前提となる。New Relicによる調査レポート「State of Observability Japan 2024」は、日本市場におけるツールの導入傾向と、そこから生じる新たな課題を浮き彫りにしている。 ### 3.1 日本企業の積極的な投資と「ツールの乱立」 調査によると、日本の組織の83%が翌年までに6つ以上の新しいオブザーバビリティ機能を導入する予定であると回答している2。また、アジア太平洋地域(APAC)の組織は、欧州(45%)や南北アメリカ(49%)と比較して、5つ以上の機能を導入する計画を持つ割合が74%と極めて高い水準にある2。これは、日本およびAPAC地域において、システムの複雑化に対する危機感が高く、ツールによる可視化への投資意欲が旺盛であることを示している。 しかし、この積極的な導入は「ツールの乱立(Tool Sprawl)」という副作用をもたらしている。ログ管理、メトリクス監視、APM(Application Performance Monitoring)、外形監視など、用途ごとに異なるツールを導入した結果、データがサイロ化し、運用担当者は複数のダッシュボードを行き来せざるを得ない状況にある。実際、41%の組織が翌年中に「ツールの統合(コンソリデーション)」を計画しているというデータは、ツールの多さが限界に達し、統合プラットフォームへのニーズが高まっていることを裏付けている2。 |**地域・規模**|**5つ以上の可観測性機能を導入予定の割合**|**示唆される傾向**| |---|---|---| |**アジア太平洋 (APAC)**|**74%**|世界で最も積極的な投資意欲。急速なキャッチアップと複雑化への対応。| |**欧州**|45%|相対的に保守的、あるいは既に統合が進んでいる可能性。| |**南北アメリカ**|49%|APACに比べると低いが、安定的な投資継続。| |**小規模組織**|64%|中規模(60%)・大規模(58%)よりも積極的。SaaS活用による迅速な展開。| ### 3.2 ビジネスデータとの統合への渇望とメディア業界の先行 SLOをビジネス価値に直結させるための動きとして、テレメトリデータ(システムデータ)とビジネスデータを統合しようとする試みが加速している。調査では、59%の組織が今後1〜3年以内に5つ以上のビジネス関連データをテレメトリデータと統合する計画を持っている2。 特にメディア・エンターテインメント業界においては、77%の回答者が5つ以上の可観測性機能を導入予定としており、他業界をリードしている2。これは、動画配信やゲームなどのサービスにおいて、レイテンシやエラーが即座にユーザー離反(Churn)に繋がり、収益に直結するというビジネス特性が背景にある。ユーザー体験の低下が経営リスクとなる業界ほど、SREとビジネスKPIの統合に対する切迫度が高いと言える。 ### 3.3 AIと自動化への期待:運用負荷の軽減に向けて 可観測性データの増大に伴い、人間による手動分析の限界も露呈している。これに対し、AI(人工知能)を活用した運用支援への期待が高まっている。具体的には、AIによるランブック(運用手順書)の自動生成(35%)、ロールバックや設定変更などの修復アクションの支援(33%)、そして自動ルートコーズ分析(32%)などが期待されている3。 膨大なログやアラートの中から異常の予兆を検知し、SLO違反の原因を特定する作業は、SREチームにとって最大のトイル(労苦)の一つである。AIによる支援は、このトイルを削減し、SREがより本質的な信頼性向上活動に時間を割くための鍵となると考えられている。 ## 4. レガシーシステムの呪縛とクラウド移行の障壁 日本企業におけるSRE実践を阻む最大の構造的要因の一つが、長年稼働し続けている「レガシーシステム」の存在である。「2025年の崖」として懸念されるように、既存システムの老朽化・ブラックボックス化は、SLI/SLO管理の基盤となるデータの取得自体を困難にしている。 ### 4.1 可観測性を拒むブラックボックス メインフレームや、独自のスクラッチ開発で構築された古いオンプレミスシステムは、現代的なオブザーバビリティツールとの親和性が極めて低い。ドキュメントが欠如し、設計思想を知るエンジニアが退職してしまったシステム(技術的負債)においては、どこにセンサーを仕込めば正しいSLIが計測できるのかさえ判然としない場合がある4。 このような環境では、SREチームはアプリケーションの内部状態を見ることができず、外部からの死活監視(Ping監視)や、ハードウェアレベルのリソース監視(CPU、メモリ)といった原始的な手法に頼らざるを得ない。これは前述した「ユーザー体験との乖離」を助長する根本原因となっており、レガシーシステムからの脱却なしには、真のSRE実践は不可能に近い。 ### 4.2 クラウド化に伴う新たな複雑性と障壁 レガシー脱却の解としてクラウド化が進められているが、それ自体が新たな課題を生んでいる。Sproutlyの資料によれば、レガシーシステムからクラウド化する際の障壁として、以下の6点が挙げられている4。 1. **セキュリティのリスク**: クラウド環境における新たな脅威への対応。 2. **社内のIT人材不足**: クラウドネイティブ技術を扱えるエンジニアの欠如。 3. **従業員への負荷**: 新しい技術やプロセスへの適応コスト。 4. **技術的負債**: 移行自体が困難なスパゲッティコードの存在。 5. **グローバル化への対応**: 海外拠点との連携やコンプライアンス。 6. **業務上の制約**: 止められないシステム、変更できない業務フロー。 特に「セキュリティのリスク」と「社内のIT人材不足」は深刻である。クラウドへ移行したとしても、適切なアーキテクチャ設計ができなければ、単に場所を移しただけの「リフト&シフト」に終わり、オートスケーリングや自己修復といったSREの恩恵を享受できないばかりか、複雑な分散システムの運用に忙殺される結果となる。AWS等のクラウドサービスとの連携においては、社内リソースの最適化と同時に、信頼できるベンダーとのパートナーシップが重要視されている5。 ## 5. 組織文化と経営層への合意形成:エラーバジェットの対立 技術的な課題以上に根深いのが、SREの哲学と日本企業の伝統的な組織文化との摩擦である。特に「エラーバジェット」という概念の導入は、多くの企業で経営層やビジネス部門との対立を生む火種となっている。 ### 5.1 「失敗の許容」対「ゼロディフェクト(無欠陥)」 エラーバジェットは、「100% - SLO」で算出され、この範囲内であればシステムの停止やエラーを「許容」し、その残余分を新規開発のリスクテイク(リリース速度の向上や実験)に投資するという概念である6。これは、信頼性と速度のトレードオフを定量的に管理するための仕組みである。 しかし、製造業を中心とした「品質第一」「ゼロディフェクト(欠陥ゼロ)」を是とする日本の企業文化において、「意図的にエラーを許容する」という考え方は直感的に受け入れ難い。経営層や営業部門にとって、システム障害は「機会損失」や「信用の失墜」と同義であり、「バジェットが余っているからダウンしても良い」というロジックは、ビジネス感覚の欠如として指弾される恐れがある6。 ### 5.2 経営層への「翻訳」と交渉力の欠如 SREの導入を成功させるためには、エンジニアが技術用語ではなく、ビジネス用語で経営層と対話する能力が不可欠である。SLOを「システムの稼働率」として説明するのではなく、「顧客満足度を維持するための最低ライン」や「過剰品質によるコスト増を防ぐためのキャップ」として再定義し、エラーバジェットを「イノベーションのための投資原資」として提示する必要がある6。 SREには、SLOの合意形成を行う「交渉力」、データに基づき合理的に説明する「説明責任」、そして事後分析をリードする「ファシリテーション能力」が求められる7。しかし、多くの現場エンジニアにとって、経営層に対し「信頼性を意図的に下げる(100%を目指さない)」提案を行い、合意を取り付けることは、技術的なスキルとは異なる高度な政治力を要する難題である。 また、稟議制度(Ringi)のような日本独特の意思決定プロセスにおいて、SREの導入やツールの購入、あるいはSLO設定の承認を得るためには、定量的なROI(投資対効果)の提示が求められるが、信頼性向上の経済的価値を正確に算出することは容易ではない。 ## 6. インシデント対応と学習の文化:ポストモーテムの成熟度 SREのサイクルにおいて、障害発生後の対応と振り返り(ポストモーテム)は、組織の学習能力を測るバロメーターである。しかし、ここにも形式化と文化的な壁が存在する。 ### 6.1 「犯人探し」から「学習」への転換の難しさ Zennの記事やSREの失敗談として語られるように、ポストモーテムが形骸化しているケースは少なくない8。本来、ポストモーテムの目的は「非難なし(Blameless)」の精神に基づき、システムやプロセスの欠陥を特定して再発防止策を講じることにある。 しかし、失敗に対する不寛容な文化や、個人の責任を追及する傾向が強い組織では、ポストモーテムが「始末書」や「反省会」に変質してしまう。このような環境では、当事者は自己防衛のために情報を隠蔽したり、矮小化したりするインセンティブが働き、真の根本原因(Root Cause)に到達することができない。結果として、表面的な対策(「確認を徹底する」「注意喚起を行う」など)に終始し、同じような障害が再発する負のループに陥る9。 ### 6.2 アクションアイテムの追跡と実行 ポストモーテムを実施したとしても、そこから導き出されたアクションアイテム(改善タスク)が実行されず、放置されることも大きな課題である9。機能開発の優先度が高く、信頼性向上のタスクが後回しにされるためである。これは、エラーバジェットポリシー(バジェット枯渇時は機能開発を凍結して信頼性向上にリソースを割く)が組織として合意・徹底されていないことの証左でもある。 ポストモーテムから得られるメリットとして、システムの信頼性向上、運用効率の向上、チームのスキルアップなどが挙げられるが9、これらを享受するためには、改善活動を業務プロセスの中に正式に組み込み、追跡する仕組みが必要である。 ## 7. 人材戦略とSREの民主化 SREの実践を持続可能なものにするためには、適切な人材の確保と育成、そして組織全体への文化の浸透が不可欠である。 ### 7.1 深刻なSRE人材不足と採用難 日本市場におけるSRE人材の不足は慢性的な課題である4。SREには、インフラ構築、クラウド運用、アプリケーション開発、監視ツールの習熟、さらには統計学や交渉力といった幅広いスキルセットが求められる。このような「フルスタック」に近いエンジニアは市場価値が極めて高く、激しい争奪戦となっている。 ### 7.2 エンジニアブランドの構築とアウトソーシングの活用 人材不足への対策として、企業は「エンジニアブランド」の強化に力を入れている。SRE導入自体を技術力の証明としてアピールし、モダンな開発環境や文化を広報することで、優秀なエンジニアを惹きつけようとする動きである5。 一方で、社内リソースだけでSREチームを組成することが困難な場合、外部ベンダーやMSP(Managed Service Provider)へのアウトソーシングが行われる。しかし、SREの核心である「ビジネス判断に基づいた信頼性管理」までを外部に丸投げすることは危険である。外部パートナーと連携する場合でも、AWS等のクラウド活用における技術的な支援を受けつつ、SLOのオーナーシップやエラーバジェットの運用判断は社内にとどめるという「責任分界点」の明確化が成功の鍵となる5。 ## 8. 結論と提言:日本型SREの確立に向けて 本調査を通じて浮き彫りになったのは、日本企業におけるSLI/SLO管理の課題が、単なる技術的な問題にとどまらず、組織構造、文化、そしてレガシー資産という歴史的背景と深く結びついているという事実である。 ### 8.1 網羅的課題の要約 1. **計測の課題**: ユーザージャーニーと乖離したシステム指標、レガシーシステムによる可観測性の欠如。 2. **ツールの課題**: 積極的な投資によるツールの乱立とサイロ化、統合への過渡期。 3. **文化の課題**: 「ゼロディフェクト」と「エラーバジェット」の思想的対立、失敗を許容しない組織風土。 4. **運用の課題**: ポストモーテムの形骸化、改善アクションの未達、人材不足。 ### 8.2 今後の展望と提言 日本企業がSREを成功させるためには、以下の3つのアプローチが重要となる。 1. **翻訳と合意形成の高度化**: エンジニアは技術用語をビジネス価値(コスト、リスク、顧客満足)に翻訳し、経営層と対等なパートナーとして信頼性の水準を決定する。これには、SLOを「守りの指標」から「攻めの投資判断基準」へと昇華させることが求められる。 2. **データ駆動型の文化変革**: 勘や経験、精神論ではなく、オブザーバビリティツールから得られる客観的なデータに基づいて議論する文化を醸成する。ビジネスデータとテレメトリデータの統合は、その強力な武器となる。 3. **スモールスタートと段階的進化**: 全社一斉の導入ではなく、影響範囲の限定されたサービスから小さく始め、成功体験(Small Win)を積み重ねることで、組織内の抵抗感を払拭し、徐々にSREの適用範囲を広げていく。 SREは、変化の激しいデジタル市場において、企業が速度と安定性のバランスを保ちながら走り続けるための「自己制御システム」である。日本の企業が持つ「品質へのこだわり」という強みを、SREという科学的なアプローチで再定義し、モダンな開発体制へと昇華させることができるかどうかが、2025年の崖を越え、その先の競争力を維持するための分水嶺となるだろう。